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戦争体験・バックナンバー
  


妻子残して満州北端へ
   
西山政利(89)
  今月は、妻子を残して戦地へ派遣され、満州北端での国境警備や伊豆諸島での本土警備に就き、戦後は建設関係の仕事で国土復興に尽くしてこられた西山政利さん(南市岡)に、その戦争体験を語って頂きました。
    ◇
  私は大正11(1922)年8月、愛媛県大洲町(現大洲市)の農家に2人兄弟の次男として生まれました。尋常小学校を卒業して神戸に出、料理屋の板場で7〜8年修業しました。

◆生きて帰れんかも
  昭和17(1942)年、20歳で兵隊検査を受けました。足腰が強かった私は30キロほどもある米俵を十数回も上げ下げして 「甲種合格」 となりました。
  陸軍に入隊し、香川県丸亀城そばの練兵場で3カ月の初年兵教育を受け、翌年春には満州(中国東北部)への派遣が決まりました。
  既に結婚し、生まれたばかりの男の子もいた私はとても辛く、出発前に 「生きて帰れんかもしれんぞ」 と告げると、妻は 「私たちのことは心配しないで、お国のために頑張ってきて下さい」 とだけ言いました。

◆古参兵助け初年兵庇う
  釜山から牡丹江(ボタンコウ)を経て列車で北へ北へと進み、着いたのは満州でも最北の地、興安省ホートーでした。川の向こうにはソ連の車が走っているのが見えました。
  ここでは演習、演習の毎日でした。砲兵の私は速射砲で戦車を狙い撃つ練習などに参加しました。春とはいえ、まだ深い雪の中を、脛(すね)まで雪に浸かりながら砲を動かしました。
  車両、砲身、台座とバラバラにして運ぶのですが、古参兵は体力不足や凍傷でヘナヘナと倒れることがよくありました。そんな時、若くて足腰の丈夫だった私は 「自分が代わります」 と進み出ました。「大丈夫か」 「何とかなります」 と一番重い砲身(60キロくらい)を担いで車両の待つ100メートルほど先まで運びました。古参兵は感謝しながらも、「お前、どんな体しとんねん」 と目を剥いていました。
  そんな行動が上官の目に留まり、私は逸早く上等兵に抜擢されたのですが、その地位を生かして、よく部下を庇ってやりました。物をなくして営倉(監獄)入りの恐怖に青くなった初年兵を、「分かった、帰って待っとれ」 と安心させ、古参兵と掛け合って物品を融通させたりしました。

◆皮膚も剥がれる酷寒
  この北満州の秋口からの寒さは苛酷でした。水気の残った手でドアのノブに触れると皮が剥がれました。風呂から上がって2,3分経つとタオルが棒みたいにカチカチに尖りました。陣地構築の穴掘りでは、上層10センチは鶴嘴(つるはし)も歯が立たず、火花が飛びました。
  休日には酒保で酒・煙草・菓子を買いましたが、ペチカのある部屋に帰ってもカチカチなので、叩き割るか、そのまま齧るかしなければ口に入りませんでした。
  そんな地でも6、7、8月は別世界でした。丘には花が咲き乱れ、畑ではじゃが芋、南京、トマトなどを栽培できました。そんな風景だけを思い返すと、今でも 「あんなええ所はない。もういっぺん行ってみたい」 と思うほどです。

南方転属免れ命拾い

 ところが昭和19年9月、我々の部隊に南方への転属が命ぜられました。戦局厳しかったこの時点での南方行きは、ほとんど死を意味しました。
  この南方転属は、そのころ満州で対ソ戦の準備をしていた山下奉文(ともゆき)大将にフィリピン行きが命ぜられたことに伴うものでした。が、なぜか中止になり、残留が決まりました。これが運命の分かれ道で、もし予定通りなら今こうして語ることも出来なかったでしょう。

◆新島で本土防衛に
  昭和20年に入り、南方への戦力供出で手薄になった本土防衛を補うためということで、6月ごろ、伊豆諸島へ移されました。
  思えばこれも運命の分かれ道で、もし満州に残っていたら、恐らくシベリア抑留などで死ぬこともあったでしょう。そう考えれば、つくづく我が身の幸運を思うと共に、南方転属者や満州残留者には申し訳なさで一杯になります。
  ともあれ、この伊豆諸島の新島で、私は部下と共に警備の任に就きました。ところが森林伐採などしていると、島の上空を大きな飛行機が何百機も通過するのが見えます。爆弾を落とさないので味方機だろうと思っていたら、ほどなく東京がB29に空襲されたと知り、戦局の厳しさに改めて衝撃を受けたものでした。

◆民家も焼き払われ
  それでも島の人たちは 「こんな小さな島に攻撃はない」 と安心していました。しかし、ここにいた約2カ月の間、B29こそ来なかったものの、戦闘機による激しい空襲が何度かありました。そのつど私は部下に 「木の陰に隠れろ!」 「茂みに飛び込め!」 などと指示し、難を逃がれさせました。
  しかし港に停泊していた船は格好の標的になり、そこを守っていた兵隊が何人もやられました。民家も焼夷弾(しょういだん)で焼き払われ、その犠牲は多大なものでした。

◆終戦で妻子の元へ
  8月15日、隊長から 「広場へ出ろ」 と言われ、玉音放送を聴かされました。日本は最後には勝つと信じていたので敗戦には生きた心地がしませんでした。
  「土佐湾が(空襲で)やられた」 と聞いていたので、帰っても何もないやろと虚しい気持ちにも襲われました。が、一方でホッとした気持ちもありました。
  1カ月ほど残務整理をして9月半ば、妻の里徳島へ帰ることができました。妻はもちろん、村人たちも 「西山が還ってきた!」 と大層喜んでくれました。子供は3歳になっていました。

◆老人に優しい世願う
  戦後は護岸工事や解体など建設関係の仕事に就き、60歳まで働きました。年金をかけていなかったため厳しい老後になり、12、3年前には息子2人を相次ぎ病気で失うという辛い目にも遭いました。
  振り返って思うのは、「戦争だけは絶対やってほしくない!」 ということです。戦争になると、たとえ自分は死ななくても身内の誰かが犠牲になります。我が子を亡くして喜ぶ親などいません。今は平和になりましたが、若者がロープで高齢者を引っ掛けるなど、段々生き辛い社会になっていくのが心配です。戦争を潜り、今の日本を築いてきた高齢者にもっと優しい世の中であってほしいと心から願う毎日です。

 
 
 
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