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腰かけ気分で入った交通科学館に40年

弁天町の空に揺れた交通科学館開設を告げるアドバルーン(昭和37年)
  勤務を終え、事務室のドアを開けると、6月の湿気を含んだ風に混じってほのかに潮の香りが鼻腔をくすぐります。私の職場は港区弁天町の交通科学博物館です。
  生まれも育ちも港区。今は兵庫県民ですが、市岡に母親が健在の上、40年の長きに亘り交通科学博物館に在勤の関係から、63歳の今日まで、ほぼ港区と共に歩んで来たと言っても過言ではありません。そこで団塊世代の記録として、地元の 「港区」 を絡めながら、懐かしい思い出、失敗談などを、恥ずかしいエピソードをもまじえ、『団塊つれづれ草』 として、つれづれなるままに書き進めたいと思います。
  まずは 「交通科学館」。これは開館当時の名称で、平成2年に 「交通科学博物館」 と改称しました。そこへ縁あって就職し、度々鉄道が好きなのですか? と問われますが、特段好きということでもありません。職業柄、交通全般について、専門とはいかないまでも 「知識」 としては必要なので、浅学菲才の身として正直辛いところで、答としては 「博物館というものが好きです」 を多用しています。つまるところこの職業が性に合っていたのだと思います。
  交通科学館は昭和37年に開館し、来年は50周年。長い間、大阪の博物館施設として親しまれ、開館以来の入館者総数も1千7百万人を超えました。思い起こせば、地元で職につくのは面映ゆく、ほんの腰かけ気分で入ったのに、途中で東京の交通博物館への転勤時代もありましたが、館の50年の歴史の中の5分の4を博物館一筋、何がしかの貢献が出来たのだろうかと自問自答のこの頃です。
  次回は子供時分の思い出などを書き綴ってみたいと思います。
                                  (2011年6月15日/142号)

三社太鼓は子供の夏のプロローグだった

戦後の三社神社(昭和30年夏)=三社神社誌から
 今回は子供時分の話です。
  ドーン、ドーンと遠くから太鼓の響きが。「おかあちゃん、あれ太鼓やなあ」 「そや、練習してはるんやで」
  7月になると港区内では、あちこちで夏祭りが行われます。私たちが住んでいた市岡地域の祭りは三社太鼓の響きがプロローグです。
  三社神社の夏祭りは毎年7月の20日、21日です。20日はちょうど学校の1学期の終業式で 「明日からは夏休みや」 という開放感もあり、毎年心待ちしたものです。
  私のおぼろげな記憶では、三社神社は現在の位置よりも、もっと北側にあったように思います。祭りや初詣は神社に大勢の人が訪れ、いろんな屋台や露店が軒を並べて競っていました。楽しみの少ない昭和30年代の子供にとって祭りや正月は 「ビッグイベント」 で、親から少しばかりの小遣い銭をもらって屋台を巡っては喜々としていました。
  当時、新旧の神社とも周りは空き地だらけ。祭りが近づくと、各種の屋台や怖そうなお化け屋敷、それに怪しげな見世物小屋、闘犬場などが準備を始めます。その光景を遠巻きに眺めてはワクワクしていました。
  さて、祭りの本宮では獅子舞や三社太鼓の巡行があります。毎年、私と弟は支給された鉢巻を巻いて汗まみれになりながら三社太鼓(だんじり)を曳きました。この巡行では、ところどころで休憩があり、子供たちに駄菓子やラムネ飲料を振舞ってくれます。世の中はまだまだ貧しい時代に、そんな特典は最高でした。
  夜店を堪能したら家の前では夕涼みや花火を楽しみ、祭りのエンディングを迎えます。
  三社神社の祭りが終わる頃には気温がぐんぐん上昇し、やがて 「天神祭」 が幕を開けると大阪は夏本番です。
                                  (2011年7月15日/143号)
映画館・食堂・市場…昭和30年代みなと通

かつてみなと通で活躍した大阪市電(右)と2階建市電(復元車)(左)=資料提供‥交通科学博物館
 先日、市岡交差点から実家へと向かう道を自転車で走っていたら、松栄(しょうえい)荘というアパートがあった場所に 「レストヴィラ弁天町」 という立派な有料老人ホームが建っているのには目が点になりました。その隣の 「マンモス」 というパチンコ店もすでに姿を消していて、その変貌ぶりに記憶がしばし昭和30年代前半の電車みち(みなと通)市岡元町4丁目付近を彷徨(さまよ)いました。
  「弥生館」 「東宝八千代劇場」 「日活第一市岡」 「大映衆楽館」。名称は不確かですが、これは映画産業が全盛期の港区内にきら星の如く点在していた日本映画の封切館です。ほかにも港区内には 「東洋劇場」 「市岡キネマ」 などがあり、どの映画館も個性ある手描きの看板が観客を誘い、特に日活の石原裕ちゃんの等身大以上の巨大看板にはびっくりしました。テレビが普及するまでは娯楽の王者として映画館は大繁盛。東映の 「弥生館」 などは常に大入り満員。お盆興行などは立ち見客の隙間から 「笛吹童子」 や 「新吾十番勝負」 を覗き見する有様でした。
  創業65年という 「赤丸食堂」 が今でも健在です。小学生時分、上機嫌時(どき)の父が発する 「赤丸へ行こか」 の掛声には 「バンザイ!」 と小躍りしたものです。外食などはまれな時代です。「洋食ランチ」 のライスを、苦労しながらもフォークとナイフで食べていました。
  「繁栄商店街(当時は繁栄市場)」 もいつも買物客で大賑わいでした。魚屋、お菓子屋、肉屋、乾物屋、果物屋に天ぷら屋。ソフトクリームをねだるため、母について市場に行ったものです…。ふと我にかえり、黄昏(たそがれ)の商店街を通り抜けると、瀟洒(しょうしゃ)な住宅群の中に見え隠れする古びた実家が私を待っていました。
                                  (2011年8月15日/144号)
ジェーン・第2室戸台風に息をひそめ

ジェーン台風で浸水した現在の市岡2丁目付近=昭和25年9月、山本安孝さん(田中3)写す
  9月は台風のシーズンです。先日は大変な台風被害があり、また今年3月には東日本大震災がありました。大震災では原発事故も重なり、先行きが不透明ですが、完全復興を祈るばかりです。
  さて、災害といえば港区でも過去に何度か台風による大被害を受けました。室戸台風(昭和9年)、ジェーン台風(昭和25年)、第二室戸台風(昭和36年)など、これらは大阪を襲った三大台風です。私はそのうちのジェーン台風と第二室戸台風とを経験しています。ジェーン台風時は3才で、「ジェーン台風を覚えてるで」 と言うと、友人たちから 「そんな、あほな。3才やで」 と必ず突っ込みが入ります。
  台風一過の後、水浸しの中、父がどこで調達してきたのか、木の門扉の筏に家族は乗り、避難先の市岡小学校から床上浸水していた我家に戻りました。2階で配給の 「乾パン」 を齧(かじ)ったことをうろ覚えに覚えています。
  我家の旧地名は市岡浜通りで 「尻無川」 に近く、この川は天井川で、台風の度によく決壊していました。今でこそ堅固な堤防が施されていますが、以前は脆弱なものでした。
  「台風や!」 その接近を知ると、父がおもむろに床下から何枚もの木材を取り出し、雨戸の無い窓を覆うように打ち付けていきます。その作業を手伝いながら、何だか興奮したものです。楽しみの少ない子供時分です。不謹慎にも台風さえ非日常行事の対象でした。とはいえ台風が夜半にでも来襲しようものなら、唸りをあげる暴風雨の恐ろしさ、停電の心細さに布団の中で息をひそめて台風の通過を待ちました。
  第二室戸台風時も我家は床下浸水しました。避難していた市岡小学校から祖母を背負って帰った私もこの時、中学生になっていました。
                                 (2011年9月15日/145号)
艀船・渡船・客船…心躍らせた少年の日々

昭和30年代の大阪市の渡船=交通科学博物館資料室提供
  港区は川と海に囲まれていて 「水運」 に馴染(なじみ)のある地区です。そんな土地柄か、子供時分の私は 「船」 大好き少年でした。
  もっとも身近なのが瀬戸内海等から関西圏への貨物を運ぶ 「艀船(はしけぶね)」 で、芥川賞作家の宮本輝氏の 『泥の河』 では安治川の 「艀船」 を題材にしていましたが、尻無川にもたくさんの 「艀船」 が浮かんでいました。水上生活者の厳しい暮らしを知らないまま艀船を眺めては近所の悪ガキ連中と 「船が家やで。ええなあ」 「僕も住みたいなあ」 というような会話を交わしていました。
  尻無川には港区と大正区を渡し船が行き来していて、現在も 「甚兵衛渡船(とせん)」 が活躍中ですが、昭和30年代には 「甚兵衛渡し」 のほか、廃止された 「中の渡し」 もあり、乗船無料の渡し船に、用もないのに何度も乗っては 「いい加減にしいや、ほんまに」 と船頭のおっちゃんに怒られつつ 「ポンポン船」 のミニクルージングを楽しんでいました。
  やがて 「船」 への興味は瀬戸内航路の客船へ。母の郷里は徳島で、夏休みなどには関西汽船の 「太平丸」 や 「おとわ丸」 で徳島(小松島港)への船旅を堪能(たんのう)しました。天保山桟橋の別府航路の 「くれない丸」 や 「にしき丸」 等の大型客船の勇姿には心躍りました。
  客船出航時の天保山桟橋では、銅鑼(どら)が鳴り汽笛が響き、蛍の光のメロディーが流れ、五色のテープが乱舞する別れのセレモニーが展開され、なんともいえない風情を醸していました。
  その後、瀬戸内航路の発着場は天保山桟橋から弁天埠頭に移り、弁天埠頭では 「関西汽船」 と 「加藤汽船」 が競っていましたが、そんな瀬戸内航路も次第に南港のフェリーへと転換していき、私の 「船」 への憧憬(しょうけい)も次第に薄れていきました。
                                 (2011年10月15日/146号)
団子・水飴・蜜柑水…懐かしのおやつ万歳
  
かつて港区でも見られた「アジアコーヒ」の暖簾。
今で言うフランチャイズチェーン店の走りだった
  先日、職場で 「はったい粉」 のことが話題になりました。同世代の者は一様に 「知ってるで。むせるやつやろ」 と、あのきな粉に似た物を言い当てました。大麦を粉にした何の変哲もない茶色い粉状のものです。時々、砂糖を入れて粘土状にして、おやつ代わりにして食べたものですが 「おいしい」 と言い難い代物でしたね。そんなことを思い出しながら、子供の頃は一体どんな 「おやつ類」 を食べたのかをふと思い浮かべてみました。
  我が家の前は表通りに面していて、きな粉をまぶした 「団子」 やこんにゃくの 「おでん」 を売る屋台車がよく通りました。この屋台にはパチンコ台がついていて、入賞穴≠ノ入ると、もう一本のおまけがつきました。米つぶを膨らませる 「ポン菓子」 が近所で大きな爆発音をたてていたり、紙芝居の 「こけかきーきー」 を見ながら 「水あめ」 を練ったりもしました。
  家でのおやつは 「ふかし芋」 が多く、これには喉がつまったものです。あんこの少ない 「回転焼」 を母が市場で買ってきてくれたり、風呂屋前のおばあさんが独りでやっていた駄菓子屋では、6個10円の 「たこ焼き」 を買ったり、風呂上がりには5円の 「ミカン水」 や10円の 「ラムネ」 を飲みましたが、20円の 「バヤリースオレンジ」 にはついぞ手が届きませんでした。5円、10円の格差に涙をのんだものです。
  父の使いのついでに 「たばこ屋」 では、5円で4枚の塩せんべいと呼んでいた 「ポンせんべい」 や1円の 「アメ玉」 もよく買いました。
  中学生の頃には港警察署の近くにあった 「アジアコーヒ」 という店で叔父にコーヒーをご馳走してもらったことがあります。この 「コーヒ」 は少し大人の味がしました。
                                 (2011年11月15日/147号)
賃つき・買いだめ・大掃除…ああ師走の町

昭和30年前後の師走の駄菓子屋風景(読者提供)
  師走になると世間は何かと浮き立ちます。子供時分に私は、この師走の 「クリスマス」 や 「正月」 を迎える何とも慌ただしい気分が好きでした。商店街やデパートでは 「ジングルベル」 のメロディーも高らかに歳末大売出しが始まり、巷(ちまた)では歳末助け合い運動が行われ、愛読していた少年雑誌は 「お正月特別五大付録」 などと、こぞって子供の射幸心をあおるような付録をつけます。たいていは誇大宣伝でしたが、それでも発売を心待ちしました。
  11月の末頃には藤田組や清水組という賃つき屋(請負で餅つきをしてくれる農閑期の出稼ぎ集団)が家庭訪問をして、正月の餅つきの予約取りをします。我が家は清水組で、暮もおしつまった頃に、この賃つき屋がやって来て、玄関先で屈強なおっちゃん達による派手な餅つきショーが展開します。家の中では母や祖母がつきたての餅を丸めたり、のし餅を作ったりと、正月を迎えるワクワク感も最高潮です。この時分には、自宅で 「餅つき」 というような家もありました。
  餅つきが終わると母の手伝いで繁栄市場へ。魚屋のおっちゃん、乾物屋のおばちゃん、果物屋のおねえさんなどの賑やかな掛け声が飛び交い、どの店も大盛況。年始の7日ぐらいまでは市場が閉まるので、みんな買いだめに大わらわです。
  やがて大晦日。家族中で大掃除の後、父や弟らと城浜温泉(銭湯です)へ行き一年の垢(あか)を落とします。夜も更(ふ)けるころには、火鉢で餅を焼きながらラジオの紅白歌合戦や除夜の鐘に耳を傾けます。
  港区は港に近いので、午前0時になると新年を告げる船の汽笛が遠くに聞こえました。「もう寝えや」、母の声に従って布団に入ろうとすると枕元には、いつも正月用の新品の服がたたんでありました。
                                 (2011年12月15日/148号)
「交通科学館」 建設時の “禁じられた遊び”

建設中の交通科学館 (昭和36年)。1月21日 に開館50周年を迎える
  私が勤務している交通科学博物館は、1月21日に開館50周年を迎えます。開館当初は 「交通科学館」 の名称で、その当時の交通科学館の建てられた周辺は殺風景な泥濘(でいねい)な原っぱが広がっていて、私たち市岡地区の子供達には区域外のこともあり、「整備している場所で危険だから行ってはいけない」 と親や先生から釘をさされていました。
  ところが悪がきたちのこと、そんな掟もなんのその、はるばる遠征しては、いたるところに出没している池とみまがうような大きな水たまり、そこに生息しているおたまじゃくしや水すましなどの自然と戯れていました。
  しかし、小学校の4,5年生の頃に大変な目に遭ったことがあります。いつものように危険区域で遊んでいる最中に、その中の一人が沼地に足を突っ込んで身動きがとれない状態になり、それを助けようとした私も同じようにぬめり込んでしまい、もがけばもがくほど深みにはまりました。周りの連中が大人を呼びに行き、事なきを得ましたが、もちろん親にこっぴどく叱られました。
  しかし後日には、懲りずに、近所を徘徊していた野良犬をつかまえて、当時のTV人気ドラマ 「少年ジェット」 の愛犬シェーンにその野良犬を見たて、泥沼地帯まで引きずりまわして遊んでいました。が、わがシェーンは狂犬病に冒されていて、ある日、急に口角から泡を吹き出し、咆哮しつつ牙をむいたので、みんなでほうほうの体で逃げ惑う恐ろしい体験もしました。
  思い出は、つい変な方向に向いてしまいましたが、現在は館の周辺も整備されていて開館当時の面影はありません。そんな館の50周年記念展を1月21日から開催していますので、ぜひご来館いただき、昭和レトロをご堪能いただけたら幸いです。
                                  (2012年1月15日/149号)

寒さに負けず闊歩した 「市岡少年探偵団」

空き地で相談をめぐらす市岡少年探偵団(昭和30年代前半)=筆者提供
  「寒っ!」。毎日寒い日の連続で、春の訪れが待ち遠しく思えます。三田市の我が家に孫が来ようものなら、風をひかせてはならじと、空調に床暖房にと不必要に暖房をきかしている 「じじバカ」 のこの頃です。
 子供時分、家の中の暖房器具といえば、石油ストーブが出回るまでは 「火鉢」 が主流。火鉢の五徳に載せられた薬缶から噴き出る湯気に 「暖」 を感じるぐらいで、寒いことが当たり前でした。そこで子供は 「風の子」 とばかりに真冬でも日が暮れるまで外で遊んでいました。
  当時の子供の遊びは、「けんぱ」 や 「缶けり」 「駒まわし」 などの定番ものと、スポーツ系の 「草野球」 や 「相撲」 のほか、「すみかごっこ(空き地にむしろや板切れで簡易小屋を作る遊び)」 や 「少年探偵団ごっこ」 などで、「少年探偵団」 は当時のラジオ番組で大流行していました。
  「♪ぼっぼっぼくらは少年探偵団―」。市岡の少年探偵団は大きな声で主題歌を歌いながら探偵になりきって日暮れの町を闊歩したものです。時には度を越して、普通に歩いているオッチャンたちを 「怪しい人」 にみたてて尾行したりしました。何の関係もない仕事疲れのオッチャンたちこそ、はた迷惑なことでした。
  上方落語に 「いかけや」 というのがあります。鍋釜を修理している職人に色々とちょっかいを出す近所の悪がきたちとの抱腹絶倒なやりとりの話ですが、私らも同じように紙芝居やポン菓子作りのオッチャンらに無理難題を投げては楽しんでいました。
  その、たちの悪い 「風の子」 の一員だった私は寒空の中、相も変わらずに 「風の子」 ならぬ 「風のじじい」 としてと夜な夜な弁天町界隈の居酒屋の 「探索」 を続けています。
                                  (2012年2月15日/150号)

2部授業に受験苦…哀歓こもごも春の夢

一学年で20クラス前後あった昭和30年代の市岡中学校の朝礼風景=同校ホームページから
  3月も半ばを過ぎるとようやく春の訪れを感じますが、この月は受験や卒業式など、私にはあまり良い思い出がありません。戦後のベビーブームで誕生した我々団塊世代の何と人数が多かったことか。市岡小学校の1年生時には生徒を一度には収容出来ず、当初は二部授業を行っていました。後に南市岡小学校が開校しましたが、今度は中学校です。さらにすさまじいことになって、市岡中の入学時には一学年で20クラスもありました。
  私の勤務している博物館では中学生の職業体験を受け入れていて、生徒とよく話をするのですが、「昔は一学年で20クラス、人数も千人を超えていたんやで」 と話しますと目をパチクリさせます。今は少子化で、一学年3、4クラスだそうです。隔世の感がします。従って高校受験も大変で、なにせ受け入れるキャパシティが少ない上に、成績の芳しくない者(私も)などは受験失敗の憂き目にあいましたが、そんな者は大勢いました。
  公立高校の合否発表の当日、併願していた私立高校に入学金を納めるため母と市バスに乗りました。おりしも悲喜こもごもの光景が展開中の市岡高校前を通過する時には挫折感が甚だしく、下を向いたままでした。3年後の大学受験でも本命の大学に落ちるなど再び惨敗しますが、この頃は性格も図太くなっており、高校時ほどのショックはありませんでした。また、大学受験と日にちがダブり、高校の卒業式には出席しておらず、未だに夢では高校生のままの自分が彷徨っています。
  今年の冬は厳しい寒さの日々が続きましたが、職場の窓越しに見えるビルにあたる西日の色が随分と鮮やかになりました。哀歓を伴いつつ、春が駆け足でやってきますね。
                                  (2012年3月15日/151号)
三角ベースに豆野球…貧しくも創意工夫

父に連れられてよく観戦に行った昭和30年代の難
波・大阪球場。阪神タイガース戦も多かった
  4月になり、またもや一喜一憂する球春が到来しました。私は自他ともに認める虎キチです。プロ野球シーズンが始まると、生活のパターンは阪神タイガースが中心と言っても過言ではなく、その戦いぶりがとても気になります。従って阪神が逆転負けなどした翌日は気分最悪で、職場では私に回ってくる書類の決裁などは様子見されている始末です。
  私たちの子供時分には大勢の野球小僧がいました。私もその一人で、世の中はまだまだ貧しい時代。満足な野球道具は無かったのですが、いたるところに空き地はあり、野球をする場所には事欠くこと無く、近所の連中と三角ベースや豆野球など創意工夫した草野球に熱中していました。
  父も根っからの阪神ファンで、父に連れられては、なんばの大阪球場や甲子園球場へも行きました。野球観戦に飽きて甲子園球場の階段状に広がるアルプススタンドを上り降りして遊んでいると時々ドーッと大きな歓声が上がります。あわてて席に戻ると 「やった! ホームランや。やっぱり藤村や!」 とか 「吉田のタイムリーヒットや」 などとバンザイや拍手を繰り返しながら大喜びしている父が 。この時からしっかりと父から 「タイガース命(いのち)」 のDNAを受け継いでいたのかも知れません。そう言えば父はちょっぴりミスタータイガースと呼ばれていた藤村富美男選手に似ていたというのが自慢でした。
  私には正式な野球経験はありません。しかし草野球では迷選手? で息子にも野球を教えましたが途中でサッカーに逃げられました。そこで今は幼い孫を野球小僧に仕立てようとボール遊びの相手をして楽しんでいます。
  幼き日の父とのキャッチボールが思い出されるプロ野球が今年も始まっています。
                                  (2012年4月15日/152号)

風に揺れる画面…懐かしの夏休み映画会

昭和の子供たちに人気があった 「交通科学館ホール映画会」=交通科学博物館提供
 息子一家とドライブに出かけました。息子が運転するワゴン車には後部座席の上部にDVDプレーヤーが取付けられていて、3人の孫たちのぐずり防止用に戦隊ヒーローものやアニメなどを観せると大人しくなります。昨今は安価なDVDソフトが出まわっています。楽しげに観入っている孫たちの横顔を見つめながら昔の 「映画」 について、つい思いを巡らせていました。
子供時分、小学校の授業以外での楽しみな行事は 「映画会」 でした。TVが普及するまでは「映画」は娯楽の王者でしたが、映画館の料金は高く、気軽に入場出来るものではありません。そこで講堂で上映される 「映画」 は最高の楽しみでした。
 今か今かと待ちわびていると講堂の照明が消え、B、A、@ とカウントダウンのコマ送りに続き、突如ライオンが現れ 「ガオッー」 と吼え、メトロニュースという黄色っぽい画面が映し出されると拍手の渦が。その後に記録映画や教育漫画の類が上映されますが、みんなはワクワクしながら観入りました。
 夏休みには市岡小学校の校庭で夜間映画会がありました。作家の椎名誠氏に 「風にころがる映画もあった」 というエッセイ集があり、そんなタイトルさながらに、校庭に特設されたスクリーンが風にはためき、登場人物の顔が歪んだりしますが、足や手を狙ってくる蚊と戦いながらも真夏の夜のイベントを満喫したものです。        
 交通科学博物館には立派なホールと映写設備があり、私も新人の頃には映写を担当していました。「映画」 は娯楽や教育には不可欠なものでした。
 ふと我に返り、孫を見やると早朝の出発のせいか、いつの間にか3人ともスヤスヤ。熱心な観客に見放されたDVDの中でヒーローだけが懸命に戦っていました。
                                  (2012年5月15日/153号)

洋楽ポップスから演歌へ…加齢は恐ろし

洋楽ポップスに夢中の若者がいつしか歌謡曲ファンに。『高校三年生』の歌詞はも切なくて…(写真は現在の舟木一夫)

 「どないなってんの?」図書館で借りた演歌のCDを夜更けに聴いていたら、隣室でくつろいでいたはずの妻ががばっと襖を開けたので、あわてて音量を下げました。妻には歌謡曲、特に演歌ぎらいを公言しています。実際、惚れた腫れたの演(怨)歌や、あなた想って北の果てで泣いてます…風のド演歌などは敬遠していました。
年を重ねるというのは恐ろしいものですね。そんな演歌も芦屋雁之助の『娘よ』や大泉逸郎の『孫』を聞くと、実体験もあり、しみじみとしてしまいます。近頃ではひそかにフランク永井の『大阪ロマン』など大阪ものにはまっています。
 子供時分には、もはや戦後でないとばかりに数々の歌謡曲がラジオなどを通じて耳に入ってきました。春日八郎、三橋美智也、三波春夫、美空ひばりなどが大活躍。しかし一方では、洋楽ポップスのコニー・フランシスの『バケーション』やポール・アンカの『ダイアナ』、ニール・セダカの『恋の片道切符』などの目新しさ。私はこのポップスに夢中でラジオにかじりついていました。歌謡曲(演歌)が何とも古くてダサいように思えました。
 ベンチャーズが1965年に来日した際はフェスティバルホールに行き、エレキサウンドの虜になり、ビートルズの登場と数々のヒット曲には衝撃を受け、学校の帰りには市岡にあった元町レコード店でレコード漁りをしたものです。フォークソングやGS、ニューミュージックなど数々の音楽シーンを経て今はひそかに隠れ演歌派です。
 先日、TVの『徹子の部屋』に舟木一夫が出ていました。相変わらず若い(若作り?)ですね。むさ苦しい男子校に通い、フォークダンスなどは夢の世界だった私には『高校三年生』の歌詞は今も切ないです。

                                  (2012年6月15日/154号)


漫画・ギター・武道…どれも未だ成就せず

中学時代に熱中したギターも中途半端のまま、60代も半ばに…トホ

 大阪駅から大和路快速に乗車しようとしたら、車内はすでに私より少し年長とおぼしき高齢の男女であふれていました。ハイキングに出かけるのか、いずれの方も色とりどりの上物(じょうもの)のウェアとキャップできめ、楽しげに会話が弾(はず)んでいました。日曜日の出勤時の光景です。
 先日には孫たちと姫路の「太陽公園」というところに行ったのですが、ここには高価そうなカメラを首からぶらさげた、これまたとっくに定年が過ぎ、後期青春期を謳歌(おうか)しようとしている大勢の男女写真マニアに出くわしました。いずれも趣味を楽しんでいる風情(ふぜい)でした。
 今、巷(ちまた)では団塊世代のリタイアした人たち向けに色々な消費活動をあおる企画が目白押しです。海外旅行しかり、撮影会しかり、各種のカルチャー教室の開催等々…。お金と自由時間がたっぷりとある方たちがターゲットです。しかし、その逆に、時間はあっても金銭的に余裕のない者(私など)は一体どうしたらいいのでしょうか。私も幼稚園から小学生時分には少々「絵」が得意でした。「漫画」をせっせと描きました。中学生の時に二年間は「文芸部」でガリ版などを刷っていました。読書も好きでした。一時期はギターに熱中しました。学生時代は武道もたしなみました。しかし齢(よわい)六十も半(なか)ばになり、人から「趣味」はなんですか?と問われても、これといったものはありません。何にでも手を出して、どれひとつとして成就したことがない、飽き性の典型です。それなのに、あんなじいさん、ばあさんの成金(なりきん)趣味みたいなことはしたくないなあと遠吠えをしている体(てい)たらくです。「可愛い孫たちのために何が誇れるのか?」と思案に耽(ふけ)ることが、妻に言わしめれば、余計な目下(もっか)の私の趣味です。

                                  (2012年7月15日/155号)

 

 

 
 

 

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