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終戦に安堵と解放感

戦後は食糧難凌ぎ家庭築く

宇賀 久美子さん(弁天)(82)  <下>

 (前号まで 太平洋戦争が深まる中、母や弟妹は疎開(そかい)し、長女で10代の私は旧夕凪で父らと食糧難に耐えながら暮らした。昭和20年3月の大阪大空襲で我が家は焼夷弾(しょういだん)の直撃を受けたが父が消し止めた。続く6月大空襲での機銃掃射の恐怖は今も消えない。8月15日、三先小校庭のラジオから天皇の肉声が流れた―)
 ◆「終わった」「負けた」
 天皇陛下の声は聞き取りにくく、父も意味がよく分からないようでした。が、前の方にいた人が「終わった!」「負けた!」などと叫んでいたことや、泣いている人がいたことから、戦争が終わったこと、日本は無条件降伏したことが分かりました。その時の気持ちは正直なところ、悔しさよりも「やれやれ」「もう怖い思いはしなくてよい」という安堵(あんど)の方が勝(まさ)っていました。「もうモンペをはかなくてもいい」「スカートがはける」という、いわば女性としての開放感のようなものを感じたのも覚えています。
 それでも暫(しばら)くの間は警防団の人たちが、「モンペを脱いだらあかんぞ」「娘さんは(進駐してくる米兵に)気をつけるように」などと警告して回っていました。
 ◆米兵を散髪した父
 何日かすると、杉村倉庫から5〜6人の米兵が出てきました。髪の毛がかなり伸びていて、口々に「バーバー(散髪屋)」「バーバー」と言っているのが聞こえました。まだ警防団の人たちが「米兵にはあまり関わらんように」と声をかけている頃でしたが、理髪業者の父は「むさ苦しいやろ」と気安く米兵に声をかけて店に入れ、そのうちの3人ほどの頭を刈ってあげました。今から考えれば、その米兵らは恐らく杉村倉庫かどこかに収容されていた捕虜だったのでしょう。
 また、その頃の日本の他の地域と同様、港区でも進駐軍の米兵は陽気にチョコレートやガムを子供らにばらまいていました。が、父は「あまり欲し気(げ)にするな」と戒(いまし)めていました。それで私たちが他の子供たちのように欲しそうな素ぶりを見せないものだから、困った米兵がお菓子を一方的に置いて帰った、ということもありました。
 ◆焼け跡でトマトやイモ
 私は昭和25年に結婚しました。近くの電話局の建物で開かれたダンス教室で知り合った夫・節雄(せつお)は4歳上で、海軍航空隊の整備兵として京都で終戦を迎えたと言っていました。
 結婚後は、義母に教わりながら、焼け跡でトマトやイモを作るなどして戦後の食糧難を凌(しの)ぎました。とにかく「子供にひもじい思いをさせまい」と必死でした。
 夫はサラリーマンで、58歳で手術を伴う病気も経験しましたが、定年後に会社を設立し、2人で何とか人並みの家庭を築くことができました。今は子供が3人、孫が9人、曾孫(ひまご)も2人いて、静かに老後を過ごしております。
戦後は平和の中で家族に恵まれ、幸せだった(写真は昭和28年頃、夫や子供と共に弁天の原っぱで)

 ◆平和で温かな国に
 80余年の人生を振り返ってまず甦(よみがえ)ってくるのは、やはり戦争中のことです。当時の日記は読み返すのが辛(つら)く、全て処分してしまいましたが、それでも、「戦争はこりごり」「これからの人たちをあんな目に遭(あ)わせたくない」と心の底から思います。
 その一方で、平和にはなったものの、日に日に殺伐としていく日本の現状には複雑な思いがあります。子供がほとんど教職に就(つ)いたことから、特に青少年の状態が気になり、「親から躾(しつ)けないと」という著名人の言葉には「本当にその通りだ」と共感を覚えます。 そして、厳しくも温かかった子供時分の家庭を思い返す時、日本が平和であると共に温かみのある国であってほしいと、心から願わずにおれません。 (終わり)

 
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港新聞社(代表・飯田吉一)
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