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日本を代表するオーボエ奏者 古部賢一さん(池島出身)
       
ソリストとしても活躍する古部さん(2008 年大阪センチュリー交響楽団との共演)= 同楽団提供(山本茂雄氏撮影)
      風呂屋のケンちゃん≠ゥら日本を代表するオーボエ奏者へ―。弱冠22歳で新日本フィルハーモニー交響楽団首席奏者に抜擢されて20年。小澤征爾さんら内外の名匠から高い評価を受ける古部賢一さん。久々の大阪コンサート(10月17日いずみホール=前号既報)で里帰りした機会にインタビューしました。
      ◇
まずは現在の活躍のルーツとなった港中学校の吹奏楽部入り、そこでオーボエを担当したいきさつを
  中1、中2と勉強ばかりしていた反動か、中3で突然吹奏楽部に入りました。妹がブラバンでトランペットを演奏していたのを見て 「楽しそうやな」 と思ったことや、親が 「楽器くらいは買うたるで」 と言ってくれたことも後押しになりました。オーボエを担当するようになったのは、顧問の梅田先生から 「オーボエ奏者がおらんねんけど」 と勧められ、これは 「目立てるな」(笑)と思ったからでした。

それは明快(笑)な動機でしたね。その後、東京藝術大学への進学を決断―
  初めプロを目指すつもりはなく、高校では吹奏楽部でオーボエを担当しながらヘビメタのバンドを組んだり合唱の指揮をしたりと忙しく、文化祭では花形(笑)でした。高2の終わり頃、梅田先生から受験を勧められ、「医者か弁護士」 にと言っていた両親の説得もして下さいました。両親は 「一浪して駄目なら諦めや」 と折れ、結局一浪して合格、「OK」 となった訳です。

更にその後、藝大在学中に新日本フィル首席奏者のオーディションに挑戦―
  就職活動の一つとして軽い気持ちで受けました。おまけに 「採用なし」 が何年も続いていて、合格なんて夢にも考えませんでした。ところが演奏だけのオーディションが進み、応募者が30人、5人と絞られ、遂に最後の1人に残ったのです。藝大のオーボエの先生に 「どないしましょ?」(笑)と相談したくらい、まさに青天の霹靂でした。若さと将来性を買ってくれたのだと思いますが、新日本フィルは人材登用でも演奏方法でも、失敗を恐れない革新性と柔軟性を持つ楽団だということが分かりました。

◆とは言っても世界的オーケストラの首席奏者。その重みは測り知れません

オーボエは高い技術と共に強い体力も要求される(2011年10月、いずみホールでの演奏)= いずみホール提供

  確かに大看板を背負っている重みを感じます。ソロで 「下手やな」 と見られると全体がそう見られるのでミスは許されず、昨日より今日、今日より明日と常に成長していかねばなりません。会社の部長的な存在で、人間関係を調整しなければならない時もあります。その一方で、ソロがうまくいって全体が盛り上がった時には大きな達成感があります。サッカーで言えばフォワードがシュートを決めた時(笑)の快感ですね。

なるほど。ところでオーボエは世界一難しい楽器とされていますが、その演奏について聞かせて下さい
  はい 。技術と共に体力も要求され、きちっと音を出すだけでも非常に難しい楽器です。その反面、チャルメラのような音、人の声のような音、サックスのような甘い音など色んな表現が出来る、非常に叙情的な楽器でもあります。オーケストラでは、“歌う部分” を任されることが多いですね。

◆その吹き口は自分で作るとか−
  オーボエは 「リード」 という厚さ0.55ミリの葦の板を2枚、上下に組み合わせ、楽器の先端に糸で巻き付け、それを震わせることで音を出すのですが、乾燥すると発音に影響が出るなど非常に繊細な面があるので扱いには神経を使います。演奏者自身が葦の原木から小型カンナのような道具で削り上げていくのですが、百分の1ミリ単位の微調整が必要です。この作業を上手にやれるようにならなければ一人前とはいえず、これで躓(つまず)く人もいるほどです。

◆演奏までの努力に頭が下がります。ところで古部さんの演奏会では特に高音の美しさにいつも感動しますが、どんな風に?
  高音は吹き口を細く硬くすることで出せます。ホースを細くすればよく飛ぶのと同じ原理です。確かに技術的には難しいですが、それと関連して言えるのは、音楽というのは心やイメージを表現することが最も重要で、技術はそのための手段だということです。

◆納得です。演奏上の信条を
  一音入魂、つまり一つひとつの音を大事にし、メロディはその積み重ね、ということです。その姿勢は昔も今も変わりませんが、年齢と経験を重ねることで、全体を意識しながらそうする冷静さ、また自分自身が演奏を楽しむ余裕が出てきたのを最近感じています。

◆これまでに特に印象深かった演奏があれば−
  3年ほど前、超満員の東京サントリーホールで小澤征爾さんのすぐ横でモーツァルトのオーボエ協奏曲のソリストを務めた時の演奏です。もちろん大成功を収めたのですが、舞台に上がる前には何というか、武者震いのような高まりを感じました。大変なパワーを持たれている小澤さんとのある意味 “対決” でしたから、こちらの持てるパワーをぶつけ、そこから何か大きなものを引き出したい、という気持ちでした。

◆そんな積み重ねの上に更に挑んでみたい事は?
  一つはレパートリーの少ないオーボエという楽器に新しい曲を作って頂くこと、もう一つは指揮という分野に挑戦することです。ちょうど役者が監督になって自分の映画を作りたい気持ちと似ています。

◆それはぜひ実現してほしいですね。ところで港区ではみなと幼稚園から池島小へと進まれましたが、その頃の思い出を−
  家の裏の公園でビー玉やベーゴマ、野球など、今で言う “アウトドア” の遊びをしていました。ガキ大将が存在していた頃でもあり、私はその “手下” といった感じで走り回っていたのを覚えています。

◆3年前に廃業した池島の元銭湯 「道義湯」 の長男ということで 風呂屋のケンちゃん と呼ばれたとか

「銭湯の番台で社交性が磨かれたのかも」 と気さくにポーズをとる古部賢一さん(昨年10月、いずみホールで)

        小学1年生の頃から、父が出かけた時などに母と交代で番台に座りました。大学の帰省時にも座っていて 「ケンちゃん大きなったな」 と冷やかされたりしました。後年役に立ったのは風呂掃除の技術(笑)です。寮でも風呂掃除は自分が担当し、10年前に結婚した妻からは 「さすがやね」 と誉められています。それはともかく、今いろんな点で役に立っている社交性は、父母から受け継ぎ、この番台で磨かれた(笑)ように思います。

◆残念ながらご両親は2年前に交通事故で急逝されましたが、思い出を−
二人とも社交的でしたが、母は細かな気遣いや気配りを欠かさず、父は磊落な反面、抑えるべきポイントはしっかり抑えていたように記憶しています。母の繊細さと父の豪快さ−その対比が今も鮮明です。音楽は二人とも好きでしたが、父はいわば雑食で、何でも聴いていました。車で映画音楽などをかけながら、子供の私をよく大阪港へ連れて行ってくれましたが、その時に中央突堤で食べたホットドッグの味や潮の匂いが今も甦ります。

◆情景が浮かび、胸が熱くなります。ところでコンサートでは演奏中にもしょっちゅうハンカチで汗を拭いているので冷や冷やする(笑)時がありますが−
それは心配をおかけして申し訳ありません(笑)。古部家(父方)の親族はみな汗かきで、一斉にうどんを食べたりしたら、それこそ大変なことになります。それを受け継いでいるわけですが、演奏中に汗を拭くのもテクニックの一つ(笑)と心得ており、ちゃんと最良のタイミングを考えていますので、あまり心配しないよう(笑)お願いします。

◆安心しました(笑)。最後に港区の皆さんにメッセージを
港区という下町で生まれ育った人間としての自負と誇りを常に抱いて演奏しています。元大リーガーの野茂英雄さんとは池島小、港中の同級生ですが、彼の現役時代の活躍やその後の活動は励みになり、それぞれの分野で、港区と世界をつなぐ懸け橋の役割が果たせたら嬉しく思います。そして、最後になりましたが、銭湯を営業していた頃は多くの方にご愛顧頂き、本当にありがとうございました。亡き両親に代わって心からお礼を申し上げます。

◆心温まるメッセージに感謝します。これからも日本で、世界で、益々活躍される事を期待しています

ふるべ・けんいち 1968年池島生まれ。元銭湯 「道義湯」 の長男。池島小、港中、大手前高を経て東京藝大へ。在学中に新日本フィル首席オーボエ奏者就任。ソリストや室内楽でも活躍。第10回出光音楽賞受賞。東京音大、昭和音大非常勤講師。


 
 
 
 
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