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そろばん復権の“仕掛け人” 森友 建さん(夕凪) <上> 兄の導きで珠算の道へ “二足のわらじ”経て塾一本に
◇ ◆まずは森友さんとそろばんとの出合いから 私は昭和12年に港区の新池田町(現三先)で生まれました。その戦前の港区で松本為一という方が大きな珠算塾を経営していたのですが、12歳上の長兄と姉二人はそこへ通い、兄は塾長の代理を務めるほどになったそうです。その後、兄は戦地へ赴き、私は小学2年で疎開し、家は昭和20年の大阪空襲で焼けてしまいました。それで戦後の生活は塚本(淀川区)で始まったのですが、帰還した兄は日本生命に就職した後、22年に珠算塾を始めました。勤めを終えてから教えていましたが、当時は塾も少なく、塾生は400人ほどもいたようですが、入れ替え制にして効率よく、しかし愛情のこもった厳しさで教えていました。戦後食糧難の時代で、家族全員で支え合って暮らすのは当たり前でしたが、兄は父と共にその中心となって弟妹を養ってくれたのです。そんな中で、私は兄の導きで4年から珠算を習い、6年で当時最高位だった一級に合格することができました。 ◆戦後の生活再建への努力が珠算との出合いを生んだように感じます その後、中学2年から兄の塾を手伝うようになり、北野高校を経て甲南大学に入学しましたが、幼稚園経営を始めた多忙な兄に代わって塾を切り盛りするようになりました。そして昭和33年、港区へ戻り、森友綜合教室を開塾したのです。大卒後は相互信用金庫に就職し、二足のわらじ¥態になりましたが、その中で法務の大切さに気付き、独学を始めました。47年には妻の病気や転勤辞令もあって退職し、塾一本に絞ると共に、甲南大の聴講生として5年間、法務を学ぶことになります。 ◆それはまたなぜ? 退職で時間的余裕ができたこともありますが、何より社会の土台である法務をしっかり学びたかったからです。講義では金融機関での実践を元に、入念に準備して質問するので、教授らから嫌がられましたが、そんな反応も楽しみながら(笑)学び続け、社会と英語の中・高教員免許を取得することもできました。実はこの聴講生時代、昭和50年代をピークに珠算人口は減り始めたのですが、そんな事態を「何とかせな」と考え続けた結果、「外国人が珠算を評価したら国も考え直すやろ」と思い至っていました。英語免許を取得したのもその為だったのです。 ◆なるほど、その後ブレークする「外国人講座」のデザインは既にこのとき固まりつつあったのですね? その通りです。(つづく) もりとも・けん 昭和12年港区生まれ。小学4年から珠算を習う。北野高、甲南大卒。同33年「森友綜合教室」開塾。日本珠算連盟理事長などを経て現在?大阪珠算協会会長・近畿珠算強化連合会代表。ブログ「世界に広がるそろばん文化」。 |
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