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 戦争体験
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大戦末期に中国戦線へ
   
藤田尚(85)
   今月は、大戦末期の中国戦線で壮絶な行軍や戦闘に参加し、戦後は船乗りとして日本の復興を支えてこられた藤田尚さん(85)(市岡)に、その戦争体験を語って頂きました。
    ◇
  私は大正14(1925)年10月、広島県尾道市百島町の米作農家に生まれました。満州事変から日中戦争へと中国での戦争が深まっていく中、学校では 「お国の為に働ける強い心と体を」 ということで、体操・修身・国語などに力が入れられ、男の子は誰もが兵隊になることを願っていました。
  私は6人兄弟姉妹の第二子(次男)で、高等小学校を卒業後、塩田で働きました。その間、昭和16(1941)年12月には米英など連合国との間でも戦争が始まりました。

◆陸軍入隊、中国大陸へ
昭和19年月、島根県浜田の陸軍部隊に入隊した頃
  戦況が厳しくなってきた昭和19年10月、19歳で兵隊検査に合格。12月には島根県浜田の陸軍部隊に仮入営。1週間後、中国に向け出発しました。博多港から玄界灘を抜け、釜山駅から軍用列車で京城、平壌、新義州、奉天、北京、天津、済南、徐州とぶっ通しで走り、出発から1週間で浦口駅に到着。小舟で揚子江を渡り、南京に入りました。
  ここで40日滞在後、昭和20年2月、任地通城を目指し、揚子江沿いの行軍が始まりました。陸路を取ったのは、船では襲撃される恐れがあったからです。

◆兵器担ぎ歩き続ける
  120発の弾丸を腰に巻き、10キロの小銃を担ぎ、18キロの背嚢を背負って4〜50分歩き、15分の小休。一日の行程は約50キロ。足腰の強かった私は、弱い同年兵の背嚢まで担いでやったこともありました。
  交替で18キロの軽機関銃を持たされたり、20数キロの重機関銃を2人で運ばされたりもしました。川を渡る時には 「武器を濡らすな!」 と厳しく言われました。
  行軍中は風呂もなく、手も顔も洗えず、着替えがないため服に虱が涌き、紙がないため用便後は草で尻を拭きました。

◆倒れた戦友が何人も
  南京を出発して20日余り経過した時でした。佃という同年兵が行軍中に用便しては遅れ、そのつど駆け足で追い付き、これを何度も繰り返しているうちに、夕刻、とうとう動けなくなり、その夜、息を引き取りました。溜まり水を呑んでの酷い下痢でした。
  またある時、バーンと音がして駆け付けると、後藤という同年兵が倒れていました。銃口を口に咥えて足の親指で引き金を引いたのか、弾が頭の後ろへ突き抜けていました。苛酷な行軍を苦にしての自殺でした。
  こんな例は一人や二人ではありませんでした。

◆励ましで乗り越えた
  4月上旬、ようやく通城の中隊本部に辿り着きました。40日に及ぶ行軍は、我々初年兵には血の滲にじむような体験でしたが、愛国心と若さ、そして何より互いの励ましと助け合いで乗り越えたように思います。が、ホッとする間もなく、今度はこの通城で、我々初年兵への厳しい教育が始まったのです。

◆休む暇などなかった
  起床ラッパが鳴ると整列・点呼。寝具を畳んで班内の掃除。飯上げ(当番が班の分を受け取りに行く)、5分間で朝食、食缶(食器)返納。再び整列して演習が始まります。
  演習では匍匐(ほふく)前進(腹ばいで肘と脛を使って進む)の訓練などがあり、合間には歩哨(ほしょう)にも立ち、休む暇などありませんでした。
  また、何か上官の気に食わぬ事があれば、「目標、向こうの高地500メートルの豚。早駆け、前へ!」 などと命ぜられます。全員で我われ先さきに走って行くと、豚は逃げ回ってとても捕まえることなど出来ず、何とも情けない思いをしたものでした。目標は鶏の場合もあり、それらを剣で突き刺して持ち帰るというものでした。

◆ 「これで最期か」 と
  初年兵教育が始まって10日ほど経った頃。夜間に突然、討伐(戦闘)命令が下りました。近くの山峡を通過する千名ほどの中国兵と交戦するためでした。
  古参兵と一緒に山腹で息を殺して待ちました。隊長は 「全員着剣せよ。敵が来たら突っ込め」 と命令しました。が、明け方になって増援部隊と合流し、中国軍の後を追いましたが、既に何処かへ去っていました。
  結局、交戦はありませんでしたが、この時、我々は愛国心に燃えていたとはいえ、まだ小銃の撃ち方さえ習っていなかったので、突撃命令にはさすがに 「これで最期か」 と死を覚悟したものでした。

◆対抗ビンタなど毎日
  一方、軍隊内部では 「強い軍人精神を養うため」 という名目で、様々な制裁が初年兵に科されました。班の中の一人でも何か粗相があると、「連帯責任」 ということで全員に、今で言う 「いじめ」 としか言いようのない理不尽な罰が毎日のように加えられたのです。
  対抗ビンタ(向き合って相手の頬を交互に打ち合う)、「母の手」 と書いた大杓子で殴打、整頓棚の下で中腰の捧げ銃、自転車に3人乗りで神社参り、「鶯の谷渡り」 「ミンミン蝉」 などと名付けられた惨めな芸の強要―等々。これらはある意味、演習や戦闘以上に辛いものでしたが、「一人前の軍人になるため」 とひたすら耐え続けました。

◆休日にストレス発散
  そうした厳しい軍隊生活のストレスと若い精力を発散させるため、休日にはほとんどの兵が慰安所(公認の売春施設)へ向かいました。部隊からは 「性病を貰わないように」 と衛生サック(コンドーム)が支給されましたが、横着をして使わず、梅毒などに感染してしまう者、また欲情に任せて何度も遊びまくり、一日で給料を使い果たしてしまう者などもいました。
  そうして同年6月、3カ月間の初年兵教育を終え、全員が一等兵に進級しました。私は下士官候補生として武昌(ぶしょう)の養成学校でさらに3カ月の訓練を受け、卒業して兵長に昇進、再び通城に戻りました。
  そして終戦までの2カ月間、討伐にも何度か参加したのですが、その中で、戦後問題となる中国兵の処刑や中国人の虐殺などがあったのです。

◆中国人を 「土民」 と
  討伐(戦闘)では米軍機の機銃掃射で大谷という少尉がやられ、私が遺体を背負って衛生兵の所まで運びました。ひどく重かったのを覚えています。
  また捕虜にした中国兵や土民(当時は使役の中国人をそう呼んでいました)の中に抵抗する者がいると 「処刑」 しました。「大人、大人」(偉い人のこと)と命乞いするのも構わず銃剣で突き刺し、死体は溝に放り込んだり、草に隠したりして、そのまま進軍しました。

◆終戦で捕虜生活2年
  昭和20年8月15日。上官から 「終戦」 を告げられました。中国では攻め続けていたので敗戦という事実は受け入れ難く思いました。が、同時に 「やっと終わった」 という安堵感が込み上げ、中には 「万歳!」 を叫ぶ兵隊もいました。
  1週間後、八路軍によって武装解除されました。武器を差し出して広場に並べ、その後方に整列。上官は写真を撮られていました。時計などの貴重品も取られ、階級章も外されました。
  捕虜生活では飛行場の整備や橋・道路の補修工事などに駆り出されました。使役は朝8時から夕方5時で、休日もありました。が、食料は一食が飯盒の蓋一杯の雑炊(固い水牛肉の塊が入っていた)というひどく粗末なもの。空腹に負けて残飯を漁る者もいました。

◆歓喜の帰国船
  昭和22年。ようやく帰国の途につきました。貨物船で上海港を出発。玄界灘に入ると 「(九州の)山が見えた!」 と歓喜の声が上がりました。5月20日、博多港に到着。伝染病予防のためとかで沖合に40日間停泊。上陸して最初に食べた露店のゆで卵とトコロテンの味は忘れられません。
  帰郷途中の広島駅から見た市街は原爆で何もかもなくなっており、「これからどうなるんや」 と日本の行く末が案じられました。
  そして忘れもしない6月22日、尾道市百島町の生家へ帰り着きました。ひどく痩たみすぼらしい軍服姿に、両親も最初は誰か分かりませんでした。「戦死」 の公報から既に2年が経っていたのです。

戦後は船乗りとして
昭和56年、戦友会「通城会」の集まりで(前列中央が私)

  戦後は塩田で働いた後、昭和26年に結婚。船乗りとして75歳まで働きました。港区へは昭和28年に移り、町会や老人会の活動にも参加してきました。今は僅かな年金で暮らしながら、会合に、子供の見守り活動にと忙しく過ごしていますが、微力でも地域のお役に立っていると思えば疲れも吹き飛びます。
  振り返れば、やはり青春を捧げた兵隊時代の思い出が一番強烈です。人命より武器が大切にされた軍隊生活、同じ人間を 「土民」 と蔑んでこき使ったり殺したりした討伐―人が人でなくなる戦争だけは二度としてはならない!と強く思っております。



 
 
 
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