・トップ
 ・あさやけ
 ・私の提言
 ・人物列伝
 ・みなとの技
 ・団塊つれづれ草
 ・読者コーナー
 戦争体験
 紙面全てを見る
  
  
戦争体験・バックナンバー
  


戦時下で家族支える
   
柴田セツ子(88)
  今月は、戦時下で家族を支えて生き抜き、戦後は平和を願い、フィリピンで戦死した兄の霊を弔って日の丸の旗を掲げ続けている柴田セツ子さん(88)(築港4)に、その戦争体験を語って頂きました。
    ◇
  私は大正12(1923)年2月、愛媛県周桑郡(現西条市)に生まれました。漁師の父を中心に、家族で家の前の遠浅の海から海藻などを採って生計を立てていました。冬は水が冷たく、仕事がとても辛かったのを思い出します。私は3人兄弟姉妹の真ん中で、兄と妹がいました。

◆紡績工場や玉突屋で
  尋常小学校を卒業するとすぐ、家族を支えるため町の紡績工場へ働きに出ました。12歳でした。そこで2年ほど勤めてから大阪へ出、港区の玉突屋や(ビリヤード)に住み込みました。
  当時、港区には40軒ほどの玉突屋がありましたが、私の勤めた店は市岡パラダイス(現在の磯路3丁目辺り)の一角にあり、活気がありました。
  選手の点数を読み上げたり、大きな算盤のような点数表に得点を表示したりするのが私の仕事でした。戦争が深まる中、休日には缶詰の整理などの勤労奉仕に携わり、空襲に備えて防空訓練にも参加しました。20歳になった昭和18年には父が52歳で他界し、兄も兵隊にとられていたので、家族の生活が一層重くのしかかってきました。

◆住友金属で働く
  昭和19年にはいよいよ戦況が厳しくなり、空襲の恐れも出てきたので田舎へ帰り、東隣の新居浜市の住友金属で本雇い(正社員)として働き始めました。
  私は工場の外の仕事でしたが、ある時、倉庫にびっくりするほど沢山のいりこ(だしじゃこ)を見ました。
  それだけ食料事情が切迫していたのでしょう。それでもここには終戦まで空襲がなく、防空壕に避難した記憶もありません。一度だけ爆弾を落とされたことがありますが、音も聞こえず、あとで大きな穴を見て初めて気づいたほどでした。

◆焼き払われた今治市
  しかし、西隣の今治市は終戦間際、空襲に遭いました。夜、家の前の浜から見た今治の街は、焼夷弾で真っ赤に燃え上がり、それがあまり綺麗だったので、恐ろしさを忘れて見惚れていたほどでした。
  タオル工場しかない今治を焼き払い、軍需工場のある新居浜に爆弾を落とさなかったのは、恐らく米軍が戦後に利用しようと考えていたからでしょう。

◆敗戦に生きた心地せず
  昭和20年8月15日の昼過ぎ。近くの庄屋でラジオを聴いた人が、「戦争が終わった」 「日本は負けた」 とふれ回っていたことで終戦を知りました。
  「もうB29は来ない」 「やれやれ」 という安堵の一方で、「米兵が上陸して来る」 「女は顔を黒く塗らんと犯される」 などの噂が飛び交い、しばらくは生きた心地がしませんでした。が、結局米軍は来ず、何もありませんでした。
  出征した兄はなかなか戻りませんでした。兄は20歳で兵隊検査を受け、すぐに満州のチチハルへ派遣され、そこからフィリピンのルソン島へ向かったと聞きました。近所の家が次々と帰還兵を迎えている中、なかなか帰らぬ息子を、母は今日か明日かと待ち続けていました。
  やがて 「公報」 が届き、それには 「陸軍飛行兵・伍長・柴田正一は昭和20年○月×日、フィリピン・ルソン島で戦死」 とありました。母は兄の生みの親ではありませんでしたが、実の子以上の愛情を注ぎ、それは大事に大事に育て上げたので、その落胆は見ておれないほどでした。

◆満州からフィリピンへ
  大正8年生まれの兄・正一は小さい頃から頭が良く、字も上手で、学校ではいつも級長の徽章(きしょう)を付けていました。親から小遣いをもらえない代わりに、得意のビー玉やメンコで儲けては私にくれたものでした。
  高等小学校を卒業して広島の飛行場で働くようになり、そこで兵隊検査を受け、合格。出征時には紙で作った日の丸を近所中の家が戸口や屋根に立てて見送ってくれました。兄は陸軍飛行兵として満州のチチハルへ派遣され、そこからフィリピンへ向かいました。

◆ 「お母さんを頼むぞ」
  フィリピンへ発つ前、兄は一度日本へ帰って来ました。そのころ私は疎開中学生の世話をしに大阪の箕面へ行っていたのですが、それを知った兄は箕面まで来てくれました。が、運悪く、その時私は天王寺の府庁で飯炊きの仕事に出ていました。それでも兄は地下鉄で天王寺まで会いに来てくれました。当時、私はひどいテング熱に罹っていましたが、苦しさを忘れて二晩、兄と積もる話をしました。
  それから兄はいったん郷里へ帰り、広島の宇品から戦地へ向かいました。私は宇品駅まで見送りに行きました。その時、私に 「元気でな。お母さんを頼むぞ」 と言ったのが、私が見た兄の最後の姿でした。

◆戦争は家族悲しむだけ
故郷の愛媛県周桑郡(現西条市)に並ぶ戦死者の墓
 戦後はしばらく、故郷の愛媛県周桑郡で家族と一緒に浜の仕事をして生計を立てていましたが、昭和30年ごろ大阪へ出ました。同37年に現在地で寿司屋を、48年にはお好み焼き店を開業し、忙しい日々を過ごしましたが、平成19年に店を閉じました。
  長生き出来て、今は幸せです。でも戦争は二度としてほしくありません。家族が悲しむだけです。日本は平和で便利になりましたが、総理大臣がくるくる変わって不安定なことや、若い人たちが我慢強くなくなったことが気になります。
  戦後も66年が経ちましたが、郷里の周桑郡では、兄の他にも、一家で2人、3人と戦死者を出した家があり、私の同級生を含めて計60人もの戦死者のお墓が並んでいます。
  私は今も、兄が大好きだった飛行機に乗って会いに来てくれるような気がして毎日空を見上げ、日の丸の旗を空に靡かせています。雨の日も風の日も、これは生きている限り続けたいと思っています。

 
 
 
Copyright 2012, Allrights Reserved.
港新聞社(代表・飯田吉一)
大阪市港区田中3-3-3