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 戦争体験
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戦争体験・バックナンバー
  


船舶砲兵で南方を転戦
   

庄野 正(93)
 今月は、船舶砲兵として南方を転戦したのち広島で被爆、九死に一生を得、戦後は被爆者運動に心血を注いでこられた庄野正さん(築港)にその戦争体験を語って頂きました。
    ◇
 私は大正7年、西区の製材労働者の家庭の9人兄弟姉妹の第六子(三男)として生まれました。高等小学校卒業後、鉄工所に就職。そこで中等教育を受け、鋳造工などを経て兵隊検査に合格、昭和14年、20歳で法円坂の陸軍歩兵連隊に入隊。重機関銃などの訓練を受け、同16年11月に満期除隊となりました。
  ところが直後の12月、米英などを相手に太平洋戦争が勃発。充員召集を受けて翌年五月、元の連隊へ戻りました。そして船舶砲兵の訓練を受けて広島の連隊へ転属され、輸送船に乗り込み、宇品港を出港したのです。以後2年半、ベトナム、ビルマ、スマトラ、ジャワ、ラバウルなど南方各地を転戦、ガダルカナル撤退作戦にも参加しました。
  
◆敵機と戦闘繰り返す
昭和15年、信太山で重機演習をする私(左)(当時22歳)
  私の船舶砲兵としての任務は、船首・船尾・中央部に備わった野砲や高射砲で船を守ることでした。当時の日記からその戦闘の一部を紹介しますと―。

△昭和17年10月30日未明、ラバウル入港中に敵六機が空襲をしかけるも猛烈な砲撃で応戦、敵機は退却、味方損害なし△同年11月8日正午、エレヴェンタ入港中に飛来したB17に猛烈な砲撃を浴びせるも撃墜には至らず。
  その一方、陸に上がれば陸上部隊の応援もしましたが、それには饅頭を頂ける楽しみもありました。

    
◆もろかった輸送船

  しかし戦況は次第に悪化。我々の船団も次々と悲劇に見舞われました。幸い私が乗り継いだ三隻(豊岡丸、昭鳳丸、室蘭丸)は奇跡的に生き延びたものの、もともと民間商業船を徴用・改造した輸送船は戦闘には適さず、ひとたび攻撃を受けるとあっけなく沈みました。再び日記からその一部を紹介しますと―。

△昭和18年11月30日19時半、ラバウルからパラオへ航行中の我が船団に敵機来襲。ヒマラヤ丸に爆弾命中、大火災。我が昭鳳丸無事なるも敵機退散後直ちに救助に向かい、翌日16時、1300名救助完了△19年7月15日8時、海南島を出港した我が船団を敵潜水艦が襲い、帝竜丸に魚雷命中、3分後沈没す。
   
  そんな中、米軍機の機銃掃射の恐怖もさることながら、身を切られるほど辛かったのは、撃沈船の救助にあたった時、ひとかたまりで浮いている者たちを優先するため、一人、二人と流されていく兵隊を見殺しにせざるを得なかったことでした。この時の悲痛な気持ちは60数年後の今も胸を刺してやみません。
 昭和19年9月、私は命令で帰国。広島で船舶砲兵を養成する任務に就きました。
  

原爆で地獄絵の広島
   

  8月6日の朝。私は連絡のため広島市郊外の分遣隊から市内宇品町の暁部隊へ向かう電車に乗っていました。その途中の8時15分、千田町付近(爆心から1.5キロ)で突然ピカッと強烈な光が目を射ました。あっと驚く間もなく、爆発音と同時に爆風が襲い、立っていた車掌台から車内の前方まで吹き飛ばされました。

◆ 「兵隊さん熱いよう」

  無が夢中で車外へ這い出し、真っ暗闇の中で路上に伏せていました。どの位時間が経ったのか、周囲が明るくなるのを感じて頭を上げ、辺りを見回しました。その時の光景は今も瞼に焼き付いて離れません。建物という建物はみな倒壊し、火に包まれていました。その中を鷹野橋方面から中学生位の子供たちが腕を前に上げ、裸体の上半身から焼けた皮膚を垂らし、頭は椀を被ったような異様な姿で続々と歩いて来るのです。
  「一体何があったのか」。一刻も早くこの状況を本隊へ知らせなければと歩きかけましたが、体が動きません。子供たちはこちらを見ると 「兵隊さん熱いよう」 「助けて下さい」 「水を下さい」 と哀願します。が、どうしようもありませんでした。その時の光景を思い出すと、可哀想で、今でも目頭が熱くなります。

「仇を討って下さい」
  爆風で吹き飛ばされた時に痛めたのか、思うように動かない身体を引きずり、ようやく本隊に到着すると、救助隊編成が始まっていました。上官は 「お前は怪我をしているから休養しろ」 と命じました。が、被害の状況を見てきただけに従う訳にはいきません。私は上官の配慮を返上し、部下10人を連れて指示された文理大グラウンドへ向かいました。
  ごうごうと音をたてる炎に包まれた広場には、夥しい数の被災者が逃れて来ており、その光景はまさに地獄絵でした。 頭から血を流して横たわる人、大声で喚きながら歩き回る人、眼球が鼻の辺りまで飛び出し、それを手で支えながら泣いている女の子、死んでいる我が子を抱え、自分も火傷で息絶え絶えの母親……。
  人々は口々に 「兵隊さん、助けて」 「水を飲ませて下さい」 「この仇(かたき)は必ず討って下さい」 と叫んでいます。「元気を出すんだぞ」 と答えながら次々と担架に乗せて御幸橋まで運びました。何回、何十回…どれだけの搬送を繰り返したことでしょう。

◆脱毛と猛烈な下痢に
翌日も翌々日も各所で救助を続けましたが、十日目位から今度は自分が死の淵へ追いやられました。脱毛と共に猛烈な下痢に襲われ、一日に何十回も便所に走り、脱水症状で気を失ったのです。気が付くと戦友たちが 「班長、一時は駄目かと思いましたよ」 と言っているのが聞こえました。相当重症だったようですが、軍医の手当もあって、私は何とか一命を取り留めることが出来ました。
そんな最中(さなか)の8月15日、日本は連合国に無条件降伏し、戦争は終わりました。が、私は9月中旬に復員するまで、寝た切りの病人でした。
  
戦後は被爆者運動に力注ぐ

◆白血球減少は好転せず
  戦後の昭和21年、単身大阪にて出て大正区の日産化学に入社。以後55歳の定年まで、労働運動にも力を注ぎながら働き続けました。またこの間、被爆者運動にも力を注ぎ、大阪被爆者団体協議会理事、港区原爆被害者の会会長、同顧問などを歴任しました。
  昭和21年に結婚した妻には同60年に先立たれましたが、現在は2人の息子、4人の孫、1人の曾孫に恵まれ、何とか人並みに暮らせています。しかし原爆症として認定を受けた白血球減少症は未だに好転していません。

◆援護法の充実は急務
  私が会長を務めていた港区原爆被害者の会は昭和40年に発足し、全国的な運動の中で平成7年、悲願の 「被爆者援護法」 を成立させました。これによって諸手当支給の所得制限がなくなるなど援護対策の中身は大きく改善されましたが、「国家補償」 ではなく福祉的な色合いが強い上に、病気や死亡の原因を被爆と認定されることに様々な条件が付くなど不充分な内容です。港区の会は既に解散しましたが、被爆者の高齢化進む中、援護法の充実化は急務です。

◆未だに謝罪せぬ米国
90余年の人生を振り返って思うのは、二度と戦争を起こしてはならんということはもちろん、戦争とはいえ一発で罪のない数十万人を殺傷し、半世紀以上も後遺症で苦しめた上、未だに謝罪もしていないアメリカという国を絶対に許すことはできない、ということです。
  また有事立法や多国籍軍への参加、米軍への給油、紛争国への自衛隊派遣なども、「後方支援だから安全」 とか 「問題ない」 とか言われていますが、私自身、船舶砲兵として輸送という後方支援の中で多くの戦友を亡くし、また罪のない人々に砲を向けもしました。戦争になったら前方も後方もありません。戦争を知らない連中が欲得で戦争を煽っているとしか思えません。

◆次世代に平和を
昭和61年夏、港区原爆被害者の会総会で会長として挨拶する私(当時67歳)

  今、日本を含む世界中の人々が平和を願い、核廃絶のために立ち上がっています。犠牲になられた方々のご冥福をお祈りすると共に私たち戦争体験者や被爆者が先頭に立って平和と核廃絶を訴えなければならないと心底から思っています。
 残り少ない人生ですが、これからもこうした自らの体験を語ることなどを通じて、日本と世界の平和のため、子や孫やひ孫の世代のために少しでもお役に立てればと思っております。

 
 
 
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港新聞社(代表・飯田吉一)
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