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戦争体験・バックナンバー
  


徴用で飛行場建設 男勝りの働きで銃後守る
   

新原フヂ子(84)
 今月は、戦争で兄を失い、自らも飛行場建設などの奉仕労働や空襲の日々を生き抜いてこられた新原(にいはら)フヂ子さんに、その体験を語って頂きました。
                     ◇
  私は昭和2年12月、鹿児島県知覧町に6人兄弟姉妹の第三子(長女)として生まれました。父は道なき所に道を造る石職人でした。


◆学校から勤労奉仕へ
  昭和6年の満州事変、同12年からの日中戦争へと戦争が深まり、部落から若者が日の丸の小旗と歓呼の声に送られて次々と出征していく中、学校では勉強どころではなく、先生から 「今日はこの家へ」 「明日はあの家へ」 と指示され、毎日のように畑の草取りなどの勤労奉仕に向かいました。
  昭和16年12月にアメリカとの間でも戦争が始まると、部落の男手はますます少なくなりました。

◆助け合いの生活
  戦況が相当厳しくなっても父は 「日本は絶対負けん」 「最後は神風が吹く」 と力を込めて私たちに教えていました。そして私を田んぼへ連れて行き、牛を扱う訓練をしました。力の強い牛を引いて田を耕すのは一人前の男の人でも大変な仕事でしたが、「牛になめられたらいけん」 「男の人の代わりに頑張らなくては」 「兵隊さんもお国のために頑張っておられる」 と必死で練習しました。その甲斐あって男勝りの仕事ができるようになると、近所から 「うちの苗代もやって」 などと手伝いを頼まれるようになりました。が、近所から助けてもらうこともたくさんあり、まさに 「助けられたり助けたり」 の生活でした。

◆カンテラさげて通う
  学校を卒業した私たちは徴用(国家のための強制奉仕)で、後に神風特攻隊の基地になった知覧の飛行場建設に動員されました。朝の真っ暗なうちに家を出、鍬を担ぎ、弁当を腰に下げ、カンテラの光を頼りに、部落のおじさんたちと一列に並んで何時間も歩きました。現場では木の根っこを掘り返したり、2人一組で土をモッコで運んだりして山を切り開いていきました。夕方5時になると、暗い道をまた一列になって帰りました。この労働は半年ほど続いたように思います。

◆兵隊さん第一で生活
  そんな戦争中の生活は、とにかく 「兵隊さん第一」 で、私たちも同じように命がけで銃後を守ろうとしていました。決して贅沢はせず、食べ物も野菜やサツマイモで我慢し、乾燥させた穀物を40キロほど袋詰めにして戦地へ送ったこともありました。
  そんな中で一番怖かったのはB29など米軍機の空襲でした。田んぼで襲われた時は泥の中を這うようにして木の下へ逃がれました。「時は迫れり、あと五分」 と日本の降伏を呼びかけるビラが舞い落ちてきて 「本当かな?」 と動揺したことがありましたが、長崎に原爆が落ちたことを知ったのは、そのすぐ後でした。

◆敗戦に「命絶とう」
  敗戦を知った時は悔しくて悔しくて、「命を断とう」 とさえ思いました。日本へ乗り込んで来る米兵に 「強姦される」 という噂も流れ、私たち若い娘は顔に泥を塗ったりして擬装し、お化けのような姿で終戦直後を過ごしました。混乱の中で隣の子がうちへ泥棒に入り、味噌樽から着物からみんな持って行かれたこともありました。

次兄帰還も長兄は戦死

◆骨箱には石ころ一つ
  この戦争中、家族で命を落としたのは一(はじめ)兄さん(長兄)でした。21歳で召集され、2年後に外地で戦死し、靖国神社へ祀られました。鹿屋(かのや)の練兵場へ家族で面会に行ったのが、長兄を見た最後でした。2個のおにぎりを長兄に食べさせたくて、着物に隠して持ち込み、監視の厳しい営門を必死で潜り抜けたのを覚えています。戦死の公報が届いたのは、嫌な夢を見て胸騒ぎがした翌日でした。骨箱には石ころが一つ入っているだけでした。

◆朝鮮から線路伝いに
  次兄は18歳で召集され朝鮮へ派遣されましたが、生きて帰って来ることが出来ました。敗戦でアメリカ兵から銃殺される寸前に逃げ、仲間と7人で道端の林檎を齧りながら線路伝いに歩き続けたそうです。何とか日本へ辿り着いた後、山口県の仙崎で船を見つけて乗り込み、慣れない櫓を操って関門海峡を渡りました。7人組の異様な姿はすぐ警官に見つかり、初めは厳しく咎められましたが、戦地での苦労を聞いたその警官は甚く心を打たれ、「ご苦労さん」と白いご飯をくれた上に、汽車の切符まで用意してくれたそうです。

◆長兄戦死の報に落胆
  そうして郷里へ帰って来た次兄は、ボロボロの朝鮮服姿で、ひどく臭く、痩せこけていましたが、目だけは戦地や逃避行の厳しさを物語るようにギラギラと光っていました。
  が、長兄の戦死を知らされた次兄は 「兄さんとどっちが早いかと急いで帰って来たのに、これでは帰ってくるんやなかった」 とひどく悲しみ、その落胆ぶりは見ておれないほどでした。
  戦死を教えた近所のおじさんも 「わしが教えたのが悪かった」 と気の毒なほど悔やんでいました。また、従兄(父の姉の子)は終戦間近い頃、知覧の飛行場へ降り立った直後に敵機の爆弾の破片が頭に当たって死んだと聞きました。

◆戦後は周りに恵まれ
戦後は平和の中で家族に恵まれ幸せだった(写真は40年前の家族旅行で夫や子供達と)
  戦後、私は結婚して3人の子をもうけました。夫は戦中、山から伐り出した木を荷馬車で製材所へ運ぶ馬使い≠ナしたが、背が低かったので兵役を免れたと言っていました。
  今は娘が2人、孫が7人、曾孫は2人。5年前からは地元のデイサービスセンターのお世話で毎日を楽しく過ごしています。戦後は総じて家族や周りに恵まれ、平和の中で幸せに生きることが出来、感謝しています。
  80余年の人生を振り返って思うのは、戦争はとにかく悲惨で、何一つ良いことは無いということです。子や孫や曾孫の代まで、二度とあんな悲劇は起こってほしくないと心から願っております。

 
 
 
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