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3月空襲で港区の半分壊滅 焼夷弾が我が家直撃 宇賀 久美子さん(弁天)(82) <上> ◇ 私は昭和5年、西区で生まれました。父は理容師見習いでしたが、私が5歳の頃、夕凪(現三先)で店が持てるようになり、一家で引っ越しました。既に昭和12年には日中戦争が始まっていましたが、私が戦争をはっきり意識したのは昭和16年12月8日の太平洋戦争開始からでした。 ◆開戦に冷静だった父 その日、店の男の子がラジオを鳴らすと、軍艦マーチに続いて「大本営発表。帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり―」と開戦を告げるアナウンスが流れました。真珠湾攻撃成功の報に皆が「やった!」「日本は勝つぞ!」と興奮状態にある中で、父だけが「静かに」「戦争はええことではないんや」と冷静にしていたのが印象に残っています。 今から思えば、父は富山県の農家の出でしたが、読書が好きで、色んな考えに触れたことから、戦争一色の世の中にも冷静で批判的な視点があったのでしょう。開戦当日に生まれた末弟の出生日を一日ずらして「12月9日」としたのも戦争を嫌う気持ちの表れだったのかもしれません。 ◆弟妹疎開、食糧は配給 ともあれ戦争は日に日に激しくなり、昭和19年6月からは学童の集団疎開が始まりました。私の幼い弟妹3人も母に連れられ父の実家へ疎開しましたが、母は家を出る時、長女の私に「父さんを助けてあげてね」と頼みました。こうして港区に残ったのは父と私、それに一つ下の妹の3人で、食糧の配給を受けながら、近所の人たちと助け合って暮らしました。 が、その配給は日々乏しくなり、薩摩芋が3人に僅か2個という日もあって、見兼ねた富山の祖父が警察の厳しい目を盗んで米や芋を運んで来てくれたこともありました。そんな中、父が豆粕で作ってくれるカステラはささやかな楽しみでした。またそれまでの軍国主義教育のせいでしょう、厳しい戦況が伝えられても私は「そのうち神風が吹く」「最後は日本が勝つ」と楽観していました。
◆父に引かれ防空壕へ |
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