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焼け野原に山積み遺体

6月空襲は機銃掃射の恐怖

宇賀 久美子さん(弁天)(82)  <中>

 (前号あらすじ 太平洋戦争深まる中、母や弟妹は疎開し、長女で10代の私は旧夕凪で父や長妹と食糧難に耐えながら暮らした。戦局は次第に悪化、昭和20年3月の大空襲で我が家は焼夷弾の直撃を受けた―)
 父は私たちを壕へ放り込むと、すぐ引き返しました。我が家と隣家は焼夷弾の直撃で一旦は燃え上がりましたが、父ら警防団員の必死の消火活動で、辛うじて消し止められました。
 ◆真っ暗な壕の中で
 一方、私たちが退避した防空壕は、今の夕凪交差点から港南中までの途中に今もある中本酒店から市岡側へ少し入った所にありました。ただの穴といった感じで、細長くて天井が低く、真っ直ぐ立つこともできず、そんな中にほとんど女性ばかり10人以上がひしめき合っていました。
 入り口付近にいると「奥へ入り」と言われ、入口を閉めると真っ暗で、灯りは懐中電灯だけ。爆撃が過ぎるまで「怖い、怖い」とただ震えていました。壕の中には食糧も水もなく、喉がからからに乾いてとても辛かったのを覚えています。
 ◆地獄のような光景
 翌日、辺り一面は焼け野原で、「中町会全滅!」などの声が飛び交っていました。そんな中で、焼け残った杉村倉庫から、どういう訳か、大量の砂糖がどろどろと流れ出ていました。食糧難の折、砂糖はとても貴重だったので、皆が我先に拾いに走ったのを覚えています。
 衝撃的だったのは、黒焦げで男女の区別もつかない遺体が大八車に乗せられ、電車道(みなと通)の方へ引かれていく光景でした。ある車には5〜6体が、別の車には数えられないほどの遺体が山積みになり、その中から、まだ息があるのか、「殺してくれ〜」と叫ぶ男の人の声が聞こえました。そんな地獄のような有様を見て、どこかのおばさんが腰を抜かしていました。

B29の焼夷弾攻撃に懸命の消火活動をする人々(昭和20年6月1日,大阪)

 ◆米機に逃げる間なく
 この3月空襲の記憶も生々しい6月1日、今度は白昼、焼け残っていた大阪港沿岸部が襲われ、港区では築港から夕凪辺りまで西半分が炎に包まれました。
この空襲では機銃掃射の恐怖が鮮明です。グラマンなどの米軍機が電車道の方角から、電線より少し上くらい!の超低空で飛んで来ると、警防団の人が「伏せろ!」「家に入れ!」などと叫びます。が、逃げる間などありません。10bほど前の道路が弾丸で弾け、煙が立ちました。隙を見て家に駆け込むと、知らない人がいて、空襲が過ぎるまで一緒に潜んでいました。
 ◆ラジオから天皇の声が
 こうして港区はすっかり焼け野原になり、やがて夏になりました。8月15日。正午に天皇陛下から直々の呼びかけがあると言うので、皆で三先小学校へ走りました。校庭のラジオから流れる天皇陛下の声は聞き取りにくく、意味も分かりませんでした。  (つづく)

 
 
 
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