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終戦に安堵と解放感 戦後は食糧難凌ぎ家庭築く 宇賀 久美子さん(弁天)(82) <下> ◆「終わった」「負けた」 天皇陛下の声は聞き取りにくく、父も意味がよく分からないようでした。が、前の方にいた人が「終わった!」「負けた!」などと叫んでいたことや、泣いている人がいたことから、戦争が終わったこと、日本は無条件降伏したことが分かりました。その時の気持ちは正直なところ、悔しさよりも「やれやれ」「もう怖い思いはしなくてよい」という安堵(あんど)の方が勝(まさ)っていました。「もうモンペをはかなくてもいい」「スカートがはける」という、いわば女性としての開放感のようなものを感じたのも覚えています。 それでも暫(しばら)くの間は警防団の人たちが、「モンペを脱いだらあかんぞ」「娘さんは(進駐してくる米兵に)気をつけるように」などと警告して回っていました。 ◆米兵を散髪した父 何日かすると、杉村倉庫から5〜6人の米兵が出てきました。髪の毛がかなり伸びていて、口々に「バーバー(散髪屋)」「バーバー」と言っているのが聞こえました。まだ警防団の人たちが「米兵にはあまり関わらんように」と声をかけている頃でしたが、理髪業者の父は「むさ苦しいやろ」と気安く米兵に声をかけて店に入れ、そのうちの3人ほどの頭を刈ってあげました。今から考えれば、その米兵らは恐らく杉村倉庫かどこかに収容されていた捕虜だったのでしょう。 また、その頃の日本の他の地域と同様、港区でも進駐軍の米兵は陽気にチョコレートやガムを子供らにばらまいていました。が、父は「あまり欲し気(げ)にするな」と戒(いまし)めていました。それで私たちが他の子供たちのように欲しそうな素ぶりを見せないものだから、困った米兵がお菓子を一方的に置いて帰った、ということもありました。 ◆焼け跡でトマトやイモ 私は昭和25年に結婚しました。近くの電話局の建物で開かれたダンス教室で知り合った夫・節雄(せつお)は4歳上で、海軍航空隊の整備兵として京都で終戦を迎えたと言っていました。 結婚後は、義母に教わりながら、焼け跡でトマトやイモを作るなどして戦後の食糧難を凌(しの)ぎました。とにかく「子供にひもじい思いをさせまい」と必死でした。 夫はサラリーマンで、58歳で手術を伴う病気も経験しましたが、定年後に会社を設立し、2人で何とか人並みの家庭を築くことができました。今は子供が3人、孫が9人、曾孫(ひまご)も2人いて、静かに老後を過ごしております。
◆平和で温かな国に |
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