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吸引20年、潜伏後に発症
     
 港湾荷役(にやく)で石綿(いしわた)粉を吸引したことが原因で中皮腫(ちゅうひしゅ)を発症し、闘病中だった元港湾労働者・真下(ましも)健二さん(田中)=本紙昨年4月号に記事=が1月、入院先の病院で亡くなりました。享年71。昨年9月には元造船労働者・中田鉄夫さん(八幡屋)=昨年6月号に記事=が亡くなっており、港区でも石綿禍が 「死」 という形をとって鮮明化してきました。二人に共通するのは症状自覚から2年余りで亡くなったことです。
                 
石綿輸入のピークだった1970年代の荷役風景(厚生労働省ホームページから)。手鉤を使う作業で飛散した石綿粉を真下さんら港湾労働者が多量に吸い込んだ
    
症状自覚から2年余
身を以て警鐘鳴らす
遺族や元同僚 「この死無駄にすまい」

2008年秋に自覚症状
  真下さんは1960年ごろから大阪港で港湾荷役に携わり、1999年に退職。その30数年間のうち20年以上は石綿を扱ったといいます。69歳になった2008年秋、階段上りや深呼吸、くしゃみなどが胸の痛みで出来なくなるという自覚症状が現われました。
  大阪市の肺がん・結核検診では異常が見られませんでしたが、区内の病院で症状を伝え、しばらく様子を見ることになりました。

手術で腫瘍を切除
  しかし翌2009年6月にはますます痛みが酷くなったので、担当医の紹介でPET検査(分裂の早い癌細胞がブドウ糖を多く消費する性質を利用して癌の有無や性質を診断する検査)、次いで生体サンプル検査を受け、「胸膜(きょうまく)悪性中皮腫」(肺を囲む胸膜にできる悪性の腫瘍)と判明しました。さっそく手術を行ない、三つの腫瘍のうち最も大きな一つを切除しました。

実態話し労災が適用
 退院後の7月、西区の労働基準監督署へ出向き、大阪港での石綿禍問題を取り上げた本紙を見せ、「この通りの労働をしてきたんや」 と労災認定を求めました。同署は真下さんの同僚だった田中章夫(ふみお)さん(67)(田中)からも事情聴取を実施、1週間後に 「労災適用」 を連絡してきました。真下さんは 「これまでの治療費は全額返ってくる」 「これからの治療費や生活費も支給される」 と胸をなで下ろし、田中さんに感謝しました。
 そして府内の労災指定病院に入院し、残る2カ所の中皮腫への抗癌剤治療を続け、11月に退院。2010年2月からは治験(ちけん)薬による在宅での抗癌剤治療(点滴)に移りました。
※ 治験薬=医薬品の製造承認を得るために,臨床試験データを収集するための薬物。

港湾仲間を気づかう
 同年3月には本紙の取材に応じ、@症状に改善は見られず、疑似麻薬を飲んでも常に胸の痛みや息切れがあり、膝裏の痛みや血圧上昇、疲労感、食欲不振、それに治験薬による副作用と思われる顔の火ほ照てりなどがある A担当医からは 『治験薬であるだけに効果は未知数』 と言われている Bまだ多くの仲間が不安を抱えたり泣き寝入りしたりしているかと思うと落ち着かない―などと語っていました。

昨年は小康状態も
 その後、同年6月には本紙からの電話に、「3週間に1回のアムリタ(抗癌剤)投与を続け、4回目が済んだ。投与後10日間は副作用があるので入院し、そのあと自宅に帰る繰り返しだ。食べ物に味が感じられないのが辛い。初めは抗癌剤で毛が抜けたが今は抜けなくなった」。8月には 「少し状態が良くなり、アムリタ投与後の入院はしていない。食欲も少し出てきたが、やはり味はない」 などと語り、小康状態が続いていることを示唆していました。

強烈な痛みに苦しむ
 ところがその後、徐々に容態が悪化し、抗癌剤や疑似麻薬の効果も薄れ、9月頃からは入院期間も次第に長くなり、同年12月下旬には完全に入院。食欲はなくなり、心臓の周りには水が溜まり、便には血液が混じり、胸部や背中を中心とした全身の強烈な痛みにのたうち回る日々が続きました。そして今年1月14日午後、面会に訪れた親族に担当医師が
「よく持って2〜3週間」と通告。その数時間後の夕刻、息を引き取りました。最後は医師が親族に了解を得て鎮静剤を打ち、痛みを和らげる措置を執ったため、「死に顔は安らか」(弟)でした。

■意味ある死を確信
 真下さんの死について真下さんの弟・真下広生(ひろみ)さん(埼玉県)は 「兄は東京に生
まれ、少年時代は広島県で育ちました。5歳の時、爆心地からは離れていましたが、原爆の強烈な光と音でワッと泣き出したことがあった、と聞いています。高校卒業後、大阪へ出て港湾労働に就きました。何年も前から献体を希望していたので、遺体は大阪市大に提供しました。体は石綿でボロボロでも、今後の病症解明や治療法の確立にきっと役立つと確信しています。またこうして石綿被害の実際を知らせて頂くことで多くの人たちへの警告になれば、兄もあの世で喜んでくれるでしょう」 と語っていました。

■自分も発症不安
 また田中章夫さん(前出)は 「私も長い間、港湾で石綿荷役に携わりましたが、その後の検診で左肺に影が見つかり、精密検査では 『肺気腫(きしゅ)』 と診断され、喉の枯れもあるので、中皮腫や肺癌がいつ発症するか、とても不安です。私の知る限りでは石綿は神戸港よりも大阪港に多く回って来ました。そんな事もあって、港区には潜在患者や何も分からないまま亡くなった者もたくさんいるはずです。そんな者たちのためにもナベさん(真下さんの通称)の死はぜひ知らせ、役立ててほしい」 と話していました。

■国はしっかり対策を
 真下さんが生前よく飲みに行っていたという大澤酒店(築港)を訪ねました。主人は不在でしたが妻の清美さんは 「真下さんとは40年以上の付き合いで、一緒によく旅行にも出かけました。普段は真面目でしたが、飲むととても面白い人で、人懐こく、情に脆い面もありました。生前よく 『俺が死んだら献体するんや』 と言っていましたし、労災が認定された時も、『他の者が続いてくれたら』 と言っていました。自分の事だけでなく、一緒に働いた仲間の事がとても気になっていたようです。そんな人達のためにも、国は真下さんの死を無駄にせず、しっかり石綿対策を講じてほしい」 と話していました。

■さらに関心と行動を
 現在、国内の石綿関連患者は数十万人と推定されていますが、元港湾・造船労働者の多い港区でも潜在患者が相当数いるはずです。
 昨年の中田さん、そして今回の真下さんの死を機に、石綿関連労働者や家族の間でこの問題への関心が一層深まり、@発症までの健康診断 A発症後の治療 B過去からの医療費や生活費の補償 C将来の生活保障―などに向けて行動に踏み出すことが期待されます。

2011年2月15日(138号)

 
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港新聞社(代表・飯田吉一)
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