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東日本大震災 継続支援へ区民奮闘
     
 現地で支援したお父さんが撮った写真を見て、僕たちも何かしなければと思ったと生徒会で義援金募金活動に取り組む中学生。「戦後の焼け野原から立ち上がった港区民のパワーを被災地へ!」 と募金活動を続ける高齢者。今なお深刻な東日本大震災被災地の状況に、世代それぞれの思いを注ぎながら、港区でも継続的な支援活動が行なわれています。そのごく一部を前号に続いて紹介します。
                 
保護者が撮った被災地写真を見て 「報道が少なくなっても私たちは継続的に!」 と支援に取り組む港南中学校生徒=写真は5月25日朝、生徒会による正門前での募金活動

◆父親の支援活動から
  5月24〜26日の朝には港南中学校生徒会の役員6人が募金箱を抱えて校門前に立ち、登校する生徒たちに 「義援金お願いしま〜す」 と呼びかけました。同校では大震災発生直後の3月17〜23日にも募金活動を行ないました(本紙既報、区内の他の小・中学校も実施)が、この日も財布の中からなけなしの小遣い銭を取り出して募金箱に入れる生徒が何人もいました。
  生徒会会長の北島広夢(ひろむ)君(3年生)は 「僕のお父さんは仕事で1週間、宮城県石巻市へ行って支援活動を行ない、そこで撮った写真を送ってくれました。それを見て、僕たちも何か出来る事をやらなければと思い、生徒会で話し合い、先生とも相談して募金活動に取り組むことを決めました。生徒会では3月にも取り組みましたが、日が経つにつれて段々と震災報道も少なくなり、皆の関心も薄れてきたので、『だからこそよけいやらなければ!』 と思いました。現地の色々な状況が気になりますが、特に原発災害が心配です。これからも皆と相談しながら、継続的に支援活動に取り組みたいと考えています」 と話していました。
  同校の担当教諭によると、集まった義援金は3日間で5万170円になったということでした。同校生徒会では、北島会長のお父さんから送られてきた被災地・石巻市の写真を廊下に掲示し、東日本大震災への生徒の関心を促しています。掲示には 「東日本にYELL(エール)を!」 のタイトルの下、@瓦礫(がれき)の原と化した市街地 A鉄骨だけとなった建物 B土砂にうずもれた住居 C自衛隊による救援活動 D熊本から支援に来た車 E「頑張ろう! 石巻」 と大書された看板―などの写真20枚が貼られていました。

◆港の真心とパワーを
  港区老人クラブ連合会は、4月2日から続けてきた義援金募金活動の一区切りとして5月19日、これまでに集まった義援金161万4千760円(街頭募金分百22万8千875円+会員分38万5千885五円)を大阪市老人クラブ連合会(大老連)に託しました。大老連は全国老人クラブ連合会を通じて被災地へ届けました。
  大老連事務局(浪速区)に義援金を届けた原田壽(ことじ)会長と小西昭人(しょうと)、藤家順(ただし)、岡田俊夫の各副会長は、「港区の真心を、パワーを、被災地の方々へ届けようと頑張って参りましたが、区民の熱いご支援でたくさんの義援金を送ることが出来、嬉しく思っています」 と語っていました。
  区老連ではこのあとも女性部を中心に、ボールペン、歯ブラシ、髭剃りなどの生活品の寄付を会員に募つのるなど、引き続き支援活動に取り組んでいます。

◆戦争と同じ構図だ
  こうした支援活動や大震災について、区内のある90代高齢者は次のように語ってくれました。
  「あの戦争で自分は海軍で南方へ派遣され、何度も船を沈められたが生き延びた。帰国して空襲にも遭ったが、奇跡的に助かった。結局は国のため身を粉にして働いた一般国民や、最前線で戦った自分らのような兵隊が大勢亡くなり、自分たちの利益のために中国やアメリカとの戦争へ突き進んだ資本家や天皇やその取り巻きは、今度はアメリカに守られて、また権力の椅子に座った。
  今度の大震災でも、国のため地域のために一生懸命働いてきた農民や漁民や労働者が一番の犠牲者で、規制緩和や原発建設を進めて被害を大きくしたアメリカや財界や歴代政治家は、責任を東電や役人に押し付け、自分たちは安全なところからの追及や政争ばかりやっている。復興特需にありつこうと虎視眈々の連中もいる。
  大本営発表が国民に真実を知らせなかったのと同じく、今はホワイトハウスやペンタゴンが圧力となって政府やマスコミに真実を語らせず、原発災害でもあとからあとから事実の追加や訂正が出てくる。東電の隠ぺい体質とかいう問題ではない。
  自分は戦後、港湾労働者として家族を養ってきたが、宮城や岩手へ回った事もあり、壊滅した港や街を見ると胸が塞がる思いだ。
  港区の復興も見てきた。津波や高潮から区民を守るため、焼け野原になったのを逆手にとって、皆が利害を越えて協力し、全面地上げという世界にも自慢できる大事業をやり遂げた。
  この前の港新聞を見て、自分たちの生活も苦しいのに支援を続ける港区民は偉いと思った。自分もわずかだが、年金生活からカンパしている。こうした庶民の気持ちと知恵と力を集めれば、東北の復興も、日本の復興も、必ずできると思う」。
       ◇
  遠隔の被災地に思いを寄せながら、区内各地でなお続けられる支援活動の数々。悲しみの中から復興に立ち上がる被災地住民・勤労者の不屈の姿勢が共感を呼んでいますが、港区民の熱さ、優しさと行動力もまた感動的です。
  歴史的な救国運動はまだ続きます。
   
2011年6月15日(142号)

 
 
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港新聞社(代表・飯田吉一)
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