復興へ懸命の取り組みが続く東日本大震災被災地。港区内でも継続的な支援活動が様々な形で行なわれていますが、被災地まで赴いて支援活動を行なった人は限られています。そこで、災害発生後に港区から派遣され、人命検索や救急に携わった港消防署の消防士・救命士の皆さんに、現地での活動体験を語ってもらいました。今後の区民の支援活動や防災活動の一助になれば幸いです。
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東日本大震災被災地での支援活動の経験を語ってくれた港消防署員(右から前川消防士長、渡辺救命士、砂川消防士長、金原消防士)=6月23日、港消防署で |
港消防署からは大阪府の陸上隊(3月11日〜4月24日、延べ1092人、うち大阪市からは同464人)の一部として6人が派遣され、そのうち4人に体験を語ってもらいました。
人命検索活動
このうち砂川栄治消防士長(38)、前川茂紀消防士長(28)、金原(きんばら)慎太朗消防士(23)の3人は3月中〜下旬、岩手県大槌(おおつち)町へ派遣され、同県遠野市の緑峰(りょくみね)高校の体育館に寝泊まりしながら、生存者救出を目的とする 「人命検索」 に従事しました。〈インタビュー内容は3人のお話を総合したものです〉
◆具体的にどんな活動をされましたか?
車で24時間余りかけて現地に入り、まず大体の様子を確認しました。初めは 「そう大したことは…」 と思いましたが、海へ近づくにつれ、「えー」 と息を呑みました。建物の倒壊など通常でも大変な事態が見渡す限り広がっている光景を目(ま)の当たりにし、今回の地震・津波の桁外れの大きさを肌で感じました。
ある程度の道は確保されていたので車で進むことができましたが、あとは歩いて入って行きました。重機は使えず、鳶口やスコップを使って捜索を続けました。倒壊の危険がある建物にも入りました。
雪が降り、道路が凍結するなど、活動は困難を極めました。また余震が頻繁に起こり、津波警報も発せられ、そのつどリーダーの笛の合図で高い所へ逃げ、活動を中断せざるを得ない隊もありました。
そんな中で、救助犬の活躍もあり、多くの生存者を救出できる一方、ご遺体も何体か発見しました。ご遺体はシートにくるみ、綺麗な場所に移してから自衛隊に引き渡しました。
◆どんなことが特に印象に残っていますか?
身内を探しておられる方から 「よろしくお願いします」 と涙ながらに訴えられた時には 「何とかしてあげたい!」 と胸が一杯になりました。
その一方で、身内の状況が絶望的な方々との接触はとても辛かったです。特に子供の服や靴が散乱している現場では悪い結果しか想像できず、心が痛みました。また、高齢者などのご遺体を発見した瞬間は、明らかに生きておられないと分かる姿なので、とても辛かったです。
活動拠点となった体育館での共同生活は苛酷でしたが、それは覚悟の上で、また被災者の辛さ、苦しさを思うと、「大したことではない」 と思いました。
◆全体を通じての感想を
まず、消防職員として今回の派遣に心から感謝しています。現地には警察官や自衛隊員も派遣されており、話す機会もありましたが、「お役に立ちたい」 という思いはみな同じで、心強く感じました。
余震や津波警報など、活動の条件は非常に厳しいものがありましたが、危機管理の基本は同じで、日頃の訓練が生きたと思っています。また実際の活動の中では、機械の力を利用しながらも、最後は人の力だと実感しました。
◆今回の体験を今後にどう生かしたいですか?
自然災害の怖さを広く市民の方に伝えていかなければならないと強く思いました。避難訓練にしても、これまで以上の真剣さでやってもらえるよう訴えていこうと思っています。
◆特に港区民に強調したいことがあれば
災害対策は消防署などの活動だけでは限界があるので、自分たちの安全は自分たちで守る心がけを持ち、まずは最小のコミュニティである家族内で、今回の大震災や防災について話し合って頂きたい。災害時の安否確認の方法、帰宅困難時の連絡手段、伝言ダイヤルをどうするか、身近な避難先をどこにするか―等々。
家族が合流する場所を 「第一候補」 「第二候補」 などと決めておくことや、最小限の決まり事を表にして貼っておくことも有効です。そして、そうした話し合いや対策を親戚や知人や隣近所などへ少しでも広げていって下さい。
救急活動
一方、渡辺毅救命士(37)は3月下旬、岩手県釜石市と大槌町で、救急隊の一員として救急活動(病院搬送・転院搬送・避難場所への移動配備・ヘリポートへの患者搬送)にあたりました。
◆具体的にどんな活動をされましたか?
大阪や沖縄など全国から医療チームが現地入りして巡回治療などにあたっていましたが、手に負えない患者がいると119番して我々が迎えに行き、釜石市の県立病院などへ搬送しました。そこでも治療が難しければ、設備の整った盛岡市の赤十字病院まで約200キロの遠距離を片道約2時間かけて搬送しました。
◆その中で特に印象に残ったのはどんな事ですか?
皆さんがテレビなどで見られたことのある、あのビルの上に観光船が乗り上げていた赤浜地区へ救急出動した時のことです。ここは地震・津波と同時に火災が発生した場所で、瓦礫の山と焼けた街並みが一面に広がっていました。その中で何とか助かり、家も辛うじて残った高齢のご夫婦がおられました。以前から患っていたご主人の心臓病が悪化したということで、現地を巡回診療していた大阪の医療チームから要請があり、救急車で病院へ向かったのですが、その途中、奥さんが話してくれました。
「今回は津波が大変でした。地震だけならこんなに大きな被害は出なかったと思います。当時、海側で仕事していた人が 『津波が来るぞー逃げろー』 と叫びながら走って行くのを聞いて、お父さん(ご主人)と必死の思いで高台へ逃げました。後から聞くと、地震直後に海の潮がびっくりするくらい引いたそうです。私はその叫びを信じて逃げることが出来たのですが、信じていない人もいました。『昔から津波の経験があり、その怖さを知っている地域なのに、どうして?』 と思いました。実はこの地震の3日くらい前に良く似た地震があったんです。その時には津波が来なかったから今回も大丈夫だろうと思ってしまったんでしょうね。信じた人は助かり、信じなかった人は流されました。残念でなりません」。
これだけで当時の緊迫感が伝わってきました。私は奥さんに 「今、何がしてほしいですか?」 と訊きました。『やっぱり水や食料かな』 と予想していましたが、答は 「元気を下さい」 でした。「水や食料を送ってもらって本当に感謝しています。避難した人も感謝しています。でもどこか元気が足りないのです。ここは自然が綺麗な町でした。もう一度取り戻したいんです。関西の人は元気一杯と聞いています。時間はかかりますが、必ず復興しますので、応援してくれる人の元気を分けて下さい。そしてまた良い町に戻った時には、必ず来て下さいね」。少し涙ぐみながらも笑顔で答えてくれた顔。その横で、体が辛いのに同じように微笑んでくれたご主人。「この言葉を、笑顔を、決して忘れてはいけない!」 と心に誓いました。
◆全体を通じての感想を
とにかく津波の凄まじい威力を痛感しました。その中で、直後は瓦礫で道路が全く使えなかったようですが、早く救助に入ってもらうため、被災者自らが道路を確保する作業をされたと聞きました。我々は災害発生から1週間経った頃に行きましたが、道路は綺麗に確保されており、隣町へもスムーズに行けました。支援に車が不可欠なことを考えると、大規模災害時にはまず道路の確保が重要だと改めて感じました。
それと、これは派遣職員に共通の思いですが、今回の重要な任務は、自分たちの力だけでなく、同僚や家族の励まし、民間企業のバックアップなど、多くの支えがあってこそ出来た事だと感謝しています。
◆港区民に強調したいことがあれば
災害への備えについては先の3人とダブるので省きますが、その上で、今回の被災地が綺麗な町を取り戻すまで、良いと思えばちっぽけな事でも続けてあげて下さい。それがどんな形であれ、必ず被災者の心に伝わると信じています。
2011年7月15日(143号)